ヨシフ スターリン。 ヨシフ・スターリン

なぜスターリンの遺体は廟から撤去、改葬されたのか?

ヨシフ スターリン

イギリスのバーナード・モントゴメリー元帥(左)とアメリカのドワイト・アイゼンハワー元帥(左から2人目)が勝利勲章を受賞した アメリカ戦争情報局 1942年は年間を通して、ソ連にとっては、大祖国戦争(独ソ戦)の中でもとくに耐え難い困難な時期だった。 赤軍は、ロシア南部へのナチス・ドイツの侵攻で甚大な被害を被り、兵士たちは迫りくる運命を恐れていた。 罰則と恐怖によって軍の規律を高めようとして、国防人民委員(大臣)を兼務するヨシフ・スターリンは、1942年7月28日に指令第227号を布告した。 )のフレーズがとくに有名となり、ソ連の反攻のスローガンともなった。 この国防人民委員令第227号により、懲罰大隊が編成され、戦場の最も危険な箇所に投入された。 懲罰大隊は、逃亡を試みるなど規律を破った将兵から成っていた。 しかしスターリンは、軍司令官、指揮官の士気を高めるには、「鞭」だけでは駄目なことも承知していた。 指揮官は概して野心的だから、実際に彼らに合った、ポジティブな刺激と褒賞があるはずだ、と彼は考えた。 こうして1942~1943年にスターリンは、司令官を対象としたいくつかの勲章の制定を始めた。 勲章は、ロシア史上の名将にちなんで命名された。 アレクサンドル・スヴォーロフ大元帥、ミハイル・クトゥーゾフ元帥、フョードル・ウシャコフ提督、パーヴェル・ナヒモフ提督。 勝利勲章は、あらゆる指揮官にとって最高の名誉となることが意図されていた。 1943年7月、「クルスクの戦い」の激戦のさなか、勝利勲章の最初のデザインがスターリンに示された。 勲章に描かれた塔は勝利のシンボル イギリスのバーナード・モントゴメリー元帥とヨシフ・スターリン Getty Images しかしスターリンは、デザインが気に入らなかった。 そのため、1943年10月にスターリンは、勲章の正面(表側)に描かれていたレーニンとスターリンの肖像の代わりに、モスクワのクレムリンのスパスカヤ塔(時計塔)を表側に描くように命じた。 1943年11月5日、スターリンはデザインの最終バージョンを承認した。 彼はこの試作品がとても気に入ったので、手元にとどめておいた。 3日後、勲章は正式に制定され、その制作が始まった。 勲章の意匠は、美術工芸家のアレクサンドル・クズネツォフ(1894~1975)によって作られた。 彼はまた、やはり軍人を対象とした別の勲章「祖国戦争勲章」もデザインしている(こちらは、兵士、治安部隊、パルチザンに授与された)。 記章の部分は、ダイヤモンドとルビーをちりばめることになっていたので、制作はモスクワの宝飾品と時計の工房に委託された。 それぞれの勲章に、ダイヤモンド180個、ローズカットダイヤモンド50個、プラチナ300グラムが必要だった。 合計で勲章制作者は、5,400個のダイヤモンド、1,500個のローズカットダイヤモンド、9キログラムのプラチナを受け取った。 ただし、天然のルビーには、それぞれに異なる色合いがあり、記章が斑点状に見えるため、結局、人工ルビーが記章に使われた。 すべての勝利勲章は手作りだった。 計22個が制作されたが、そのうち3つは授与されなかった。 モスクワ・クレムリン博物館の専門家が行った2010年の調査によれば、これらの勲章には、皇室ロマノフ家の人々が身につけていた勲章や宝飾品のダイヤモンドが含まれていた!ロシア帝国の崩壊後、それらの勲章と宝飾品は、ツァーリの宝物庫から取り出されて解体され、宝石がソ連の保管庫に移されていた。 記章の部分には、174個のダイヤモンド(合計16カラット)と5個の人工ルビー(各5カラットで、計25カラット)があしらわれていた。 絵柄(クレムリンの城壁、レーニン廟、樫と月桂樹の枝)は、小さなダイヤモンドがちりばめられ、金メッキしたプラチナで作られている。 留め具のネジとナットのみが銀製だ。 勲章全体の重量は78グラム。 この勲章のユニークな特徴は、シリアル番号が付いていないことだ。 当初から、最も希少な勲章として制作されたため。 勝利勲章よりも数が少ない勲章も、いくつかあるが、価値の点で勝利勲章に及ばない。 勝利勲章が初めて授与されたのは、1944年4月10日。 授与者は、ゲオルギー・ジューコフ元帥(1896~1974)、アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥(1895~1977)、そして国家防衛委員会議長ヨシフ・スターリンだった(国家防衛委員会は、戦時中の臨時の上級機関で、国家における全権を有していた)。 3つともすべて、右岸ウクライナの解放に対して授与されている。 その後、1945年に、同じ3人が2度目の勝利勲章を受章。 勝利勲章はトータルで計20個が17人に授与され、そのうち3人(前述)が2度受章。 1人(レオニード・ブレジネフ)は死後に剥奪されている。 イワン・チェルニャホフスキー大将(1907~1945)は1945年2月23日に受勲するはずだったが、2月18日に亡くなり、受章に間に合わなかった。 勝利勲章は、5人の外国人にも授与された。 1945年6月5日に、イギリスのバーナード・モントゴメリー元帥とアメリカのドワイト・アイゼンハワー元帥(連合国遠征軍最高司令官)が、受章している。 理由は、「大規模な軍事作戦の遂行において傑出した成功を収め、その結果、ヒトラーのドイツに対する連合国の勝利がもたらされた」 ルーマニア国王ミハイ1世は、1954年7月6日に授与されている。 理由は、「ルーマニア政府内のナチ協力者を逮捕した決定に対して」。 これは、ルーマニアが枢軸国側だった1944年8月23日に、ミハイ1世が、国防大臣のコンスタンチン・サナテスクらとともにクーデタを起こして、時の政府首班アントネスクを追放し、連合国側につくと宣言したことを指している。 この時点では、ソ連のナチス・ドイツに対する決定的な勝利は、まだ得られていなかった。 勝利勲章をかけているルーマニア国王ミハイ1世 アーカイブ写真 ポーランド元帥のミハウ・ロラ=ジミェルスキは、1945年8月9日に、対独戦の指揮に対して授与されている。 また、ユーゴスラビアでパルチザンを率いたヨシップ・ブロズ・チトー元帥(後の大統領)も、1945年9月9日に受章。 ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフは、1978年に勝利勲章を授与されたが、これは、勲章の規定に違反していると見なされ、彼の死後の1989年に剥奪された。 モスクワ・クレムリン博物館には、勝利勲章の最大のコレクションがあり、計8つ保管されている。 セミョーン・チモシェンコ元帥(1895~1970)に授与された勲章と、誰にも授与されなかったものの計2つは、ロシア連邦の貴金属と宝石を保管する「ロシア国家貴金属・宝石備蓄機関」(ゴフラン)にある。

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ヨシフ・スターリン|ソ連を支配した独裁者

ヨシフ スターリン

来歴 [ ] 生い立ち [ ] (現在の)に生まれる。 を経て 、をに卒業する。 に18歳で日本共産党に入党。 からまで共産党と関係が深いに勤務する。 ジャーナリスト、テレビコメンテーターとして [ ] にのジャーナリストとして『』の批判キャンペーンに参加する。 同誌休刊後は『』でも報道に携わる。 日本共産党員であったが、に出版された『日本共産党への手紙』()の編集を手掛たことによって、党規律違反として処分を受ける。 後半には、に詳しいとして、しばしばTVの報道番組に出演し、系列の『』ではレギュラーのコメンテーターを務めていた。 しかし、有田は発生以前からオウムを取材していたわけではなく、一緒に酒を飲むほど親しくしていたにオウムの話ばかりを聞かされ、詳しくなった。 のオウム施設への以降、しばらくの間平均睡眠時間が3-4時間になった。 政治家として [ ] 、副代表に就任し、同年のに同党の比例区から立候補したが落選した。 、新党日本公認で、に(比例区)から立候補したが、落選した。 その後に移籍し 、のに比例区から立候補し、37万票獲得し初当選した。 民主党の比例区当選者としては、トップ当選であった。 のに比例区から立候補し、2選(20万票、比例4位)。 では参議院委員長を務める。 12月11日、民進党を離党しへの入党を申請。 26日承認された。 8月29日、立憲民主党沖縄県連代表に就任。 「反ヘイト活動家」として [ ] などといったが行っている活動への批判を行っている。 構成員らとともに、頻繁にカウンターと称するデモに参加している。 路上に寝転ぶなどして在特会等のデモの妨害をし、警察が安全性を考慮してデモ主催者にデモ中止を要請する事態となったこともある。 にが主催する「不逞鮮人追放!韓流撲滅 デモ in 新大久保 」という活動を見た後、「異常なデモ」「でも問題にしたい」などとに書き込み、それを実現する形で2013年に参議院でを実施した。 韓国メディアので、2014年のに、らとともに参加していることが写真つきで報じられている。 構成員らが主催している2015年のに、の扮装をしたのマスクをかぶり、「武器輸出始めました」と発言しているコスプレをしてデモ参加している。 反レイシズム(反人種差別主義)をうたい、に対して抗議活動を繰り広げる「レイシストをしばき隊(現・)」や「」などを支持する発言を自身のでしており 、これらの集団が主催するへの「カウンターデモ」への参加も確認されている。 とに対して「ぎりぎりまでやってくれる」と賞賛し、既存の市民運動について「既存の運動や政党は合法主義のあまり、闘わなくなった。 きれい事と口先だけの人権派ばかりだ」と批判している。 これについて、は、「法をないがしろにすると受け止められかねない発言」であり、「『良識の府』である参議院の議員とは思えない言葉だ」と批判している。 2017年7月16日、らが川崎市中原区でおこなったデモに対し、有田やしばき隊など約400人の反対派が集結し、デモ隊に向かって「神奈川県警はデモをさせるな」「ヘイトをやめろ」などと声をあげた。 数十人からなるデモ隊は約400m程行進した後撤収した。 有田は「コソコソ。 あいつらに見つからないうちに早く、早く、うわっ、見つかった。 バスに逃げ込め、痴的でシュール。 カウンターの勝利」などと「勝利宣言」し、瀬戸は「正式に許可されたデモで、その集合場所に向かう人たち達の足を止めるなどと平然と言い放ち、それが不法行為であり犯罪であることを隠していません」などと有田らの行為を批判した。 取材・執筆活動 [ ] オウム真理教問題、統一教会 [ ] からの取材を始め、にはオウムウォッチャーとしてテレビに出演した。 レギュラーコメンテーターを務めていた『ザ・ワイド』では、 統一教会の騒動およびオウム真理教によるの際のコメンテーターとして出演していた。 2018年7月6日、ら7人が死刑執行された際、ツイッターで「常識的に判断してありえません。 麻原彰晃の裁判資料だけでも部屋ひとつが一杯になります。 「中略」政治判断です」と発言している。 統一教会(現:)が拉致監禁と呼んでいる教会信徒に対するについて、有田は「霊感商法など反社会的問題を起してきた統一教会から脱会させようと努力するのは、家族として当然の行為だ」と主張している。 有田は統一教会の批判記事を書くためにされ当時偽装脱会で中だったとされるの統一協会系病院の、小出浩久に文春の記者とともにした。 そこから得た情報は後日週刊文春に掲載された。 この時、有田は「一年間も閉じこめられていて、よく耐えられましたね」と小出が監禁状態であった事を事前に知っていた発言をしたと小出はしている。 これに対して有田は小出に会った事は認めたが発言は否定し、監禁されているようには見えなかったと弁明している。 また、月刊タイムスの座談会記事 においても有田は改宗拉致について「一部では確かに行き過ぎもありました。 」と拉致監禁の要素も一部あった旨の認識を示している。 の事件の犯人がオウム真理教で使われていた言葉の訳を犯行ノートに記していたことを元にオウム真理教事件が影響していると推測している。 また犯人のを担当したも同様の見解を示しているという。 有田は、神戸連続児童殺傷事件の犯人である元少年Aが匿名で2015年に出版した本『』について、「まさに飛ぶように売れています。 」「事件の社会的教訓はまだまだです。 」とツイートした。 また、種々の批判を「感情的批判は「外在」にすぎない。 」と、「週刊文春」に寄せられたの「『正義』を自称する『集合的悪意』は野放図に肥大化するだろう」という言説を引用した。 都はるみ、テレサ・テンとの関係 [ ]• とは『歌屋都はるみ』(1994年刊行)の取材および執筆を機に親しくなった。 都の公式サイトでは有田を「都はるみの大親友」としている。 とは亡くなる半年前に会い、伝記執筆を申し入れた。 に出版した『私の家は山の向こう - テレサ・テン十年目の真実』は、にされた。 文藝春秋との関係 [ ]• の前社長とは長年の同志である。 政治活動・主張 [ ] 北朝鮮問題 [ ]• の被害者全員の救出に向けて行動を起こす事を公約として挙げている。 10月24日、視察の後に北朝鮮の平壌を訪問していたことが判明。 への渡航は政府によって自粛が求められていた中でのことだった。 これについてのはで「政府・与党に相談なく、議員が訪朝するのは残念だ」と不快感を示した。 2015年10月27日から31日までの日程で、訪朝経験のある東京都渋谷区議が同行し、北京経由で北朝鮮を訪問した。 なお、有田が訪朝したのは2012年10月23日以来2度目である。 朝鮮学校への高校無償化推進 [ ]• をめぐってはへの適用に賛成し、に実施された「『』制度のへの即時適用と復活を求める院内集会」に幹事長の参院議員、社民党政策審議会長の参院議員、の参院議員、の衆院議員、社民党の衆院議員らと共に参加し朝鮮学校に「無償化」をこれからも働きかけることを表明した。 外国人参政権推進 [ ]• に賛成しており、に・・・と共に「永住外国人に地方参政権を!5・31集会」に参加し、付与を主張した。 反韓デモ規制推進 [ ]• 2013年3月14日に参議院議員会館開催の「」を呼びかけ、新大久保で行われる反韓デモの不許可をに要請した。 この有田の行動に賛同する6000人近くの署名が集まった一方で、有田自身はツイッターに匿名で『有田をぶっ殺す』と書き込まれたと述べている。 反韓デモに対して、有田は2013年5月9日に行われた第183回国会・参議院において「」を主題として質疑に立った。 この質疑で有田は において、『』などがデモの前後、「お散歩」と称して界隈の韓流タウンを練り歩いているが、その道中に「眼前にいるコリアンの人たちに対して直接『殺すぞ!』『お前ら殺すぞ!』と罵声を浴びせて脅した」「全国から韓流ショップへに来た人たちから『私物検査だ』と言っては買い物袋を取り上げ、中身を上にぶちまけた。 はそれを見ているじゃないですか」と発言した。 これに対しの河邉有二は、「お散歩」は把握しているが「私物検査」については承知しておらず、法律に従って対処していると回答した(国会会議録 参 - 法務委員会 - 5号)。 2014年、有田が激しくTwitterで批判していたニューズウィーク日本版2014年6月24日号『反差別』という差別が暴走する」の記事に登場する市民グループ「男組」の主要メンバー8名が違反容疑でなどに逮捕された。 有田はこれを不当逮捕だと公言している。 公職選挙法違反疑惑 [ ]• 『』によると、有田は中の2010年6月25日、自らキャッチコピーの入ったのぼりを持ち、スタッフにも「とことん現場主義」というコピーをプリントしたポロシャツを着用させて選挙運動を行っていた。 やまと新聞社の記者が有田の演説終了を待ってに抵触しないかを確認したが明確な返答は得られなかった。 東京都選挙管理委員会は「スタッフと一般の方とを識別する目的で色をそろえる程度はよいとされています。 選挙運動用にそろえて作ったもの、候補者や候補者を連想させるようなものは違反となります」としている。 百田尚樹講演会中止への働きかけ [ ] 2017年6月にで開催予定であったの講演会について、ネット上で行われた中止を求める署名活動に賛同した。 が「学生のイベントに特定の議員が介入したとも聞いていますが、何をしているのでしょうか。 左右関係なく公人、議会人による権力の濫用は許されません。 考え方が違うからと講演の機会を邪魔するのは言論に対する冒涜です」とツイートしたところ、有田が「原口さん、何を言っているんですか。 『ある議員』とは有田芳生を言い募るあまたの書き込みでしょう。 あなたもそれを前提に書いてきたのでしょう。 問います。 私が百田講演会にどう介入したというのか。 選択的夫婦別姓制度 [ ]• 選択的制度導入に賛成している。 表現の自由 [ ]• およびを守るとの立場から、映画「」の上映を支持する運動を行っている。 安全保障 [ ]• 、元のや党首のと連名で、が目指す憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認を支持しないようのに求める文書をに提出した。 文書に賛同した19人は衆議院議員では民主党の、 ・社民党の、参議院議員では民主党の、、、、有田、、、、、 、、、・社民党の、、だった。 受動喫煙問題 [ ]• 防止を目的に飲食店などの建物内を原則とする改正案に反対。 日本禁煙学会がのに先駆けて行った受動喫煙防止法についての公開アンケートにおいて、やを含む一般市民が出入りする場所は、までに「罰則なしのとするべきである」と回答している。 しばき隊問題 [ ] 有田芳生参院議員の「集団リンチ事件」隠蔽関与の疑惑がある。 2015年5月31日、鹿砦社特別取材班が2014年12月16日の深夜から17日未明の「集団リンチ事件」を「12月17日に有田先生は大阪へ飛んでいますが、詳細を教えてください」と有田に質問するが、有田は「ネットで噂になっている事は知っているが、真偽を含めて事情を知らないのでコメント出来ない」と回答しているが、実際は事件後17日直ぐに大阪に急行しているし、元しばき隊の告発では 手に負えなくなって12月21日に有田にツイッターしている、取材に関係者から有田が「集団リンチ事件」の解決に動いた形跡がなく、「むしろ隠蔽に加担したのではないか?」との情報が複数集まった。 評価 [ ]• しばしば自身のTwitterで北朝鮮による日本人拉致問題や日朝関係についてのツイートをしているが、日本政府・を批判するものも多く、民団や朝鮮総連との交流や2013年3月7日の発言なども影響してネットユーザーから「拉致問題を政治利用している」「北朝鮮を擁護している」「有田は解決よりも正常化が最優先だと思っている」と批判されることがある。 2016年6月9日発売の「週刊文春」に横田夫妻と孫(拉致被害者の娘)とされる人物らの面会写真を公開した。 によると、写真は2014年3月にモンゴルの首都ウランバートルにある迎賓館で撮影されたもので、拉致被害者で現在も消息不明の横田めぐみの孫で、横田夫妻のひ孫に当たる女児も写っている。 それについて横田夫妻は「有田氏から写真を見せられ、一部の週刊誌に掲載する写真だと説明された」と指摘しており、孫から写真を外に出さないでほしいと約束していたため、どこにも提供していないとしている。 なお、有田は無断公開を否定し、「写真の選択をいっしょに行い、「中略」求められた加筆と訂正を行ったうえで『週刊文春』の記事になりました」と横田夫妻と正反対の主張をしている。 (「救う会」)は本件について横田夫妻に確認をとり、「写真は横田家から1枚も何処にも出していません」と連絡を受けている。 なお、横田夫妻は6月8日付で「皆様へ」と「マスコミの皆様へ」の2つの手書きコメントを出しており、「皆様へ」には記事と掲載写真に対する指摘および反論が書かれている。 「救う会」は有田による入手先不明の写真公開について様々な誤解が広がっていることから、横田夫妻に直接話を聞いた。 「救う会」は、有田が公開した写真を横田夫妻の所有だと虚偽をマスコミなどに伝えていたことを確認したとして有田を非難するコメントを出したうえで、有田が公開した写真の実際の入手先は以外には考えられないとの見解を出した。 横田夫妻は写真の入手先を有田から聞いてはいないという。 横田夫妻は、有田とは意見が大きく異なり、有田は自分達の考えを代弁してはいないことを伝えるために、6月10日付で「今回、孫の写真を独自ルートで公開された有田先生と私達の考えは違っているという事をはっきりさせて頂きたいと思います」というコメントを出した。 なお、横田夫妻は同コメントで「北朝鮮からウンギョンさんを日本に呼ぶという話が繰り返し出ていますが、私たちにとってはびっくりするだけです。 もしそう言われたとしても、そういう事は致しません。 」と明言している。 有田は横田夫妻のコメントを「横田夫妻は自身に対して『有田先生』ではなく『有田さん』と接している」という理由で偽物であると主張し これ以降も横田夫妻が自身を応援していると主張している が、2016年6月22日に開催された東京・文京区民センター「東京連続集会91」において横田早紀江本人の口から正式に有田とは意見が大きく異なる旨が言及された。 有田は該当記事について、横田夫妻と公開する写真を選択し、モンゴルでの詳細を聞き、原稿も細かくチェックしたうえで記事にした と主張しているが、横田早紀江本人は「その後の経緯は週刊文春と有田さんだけのことで、どんなものが出るかは私たちは全然知りませんでしたし、こういう文章で書いてくださいと有田さんに渡したものでもありませんし、全くノータッチで、写真の公開を了承しました。 」と否定している。 の際に、『ザ・ワイド』で有田は「はというバンドの・歌詞の影響を受けた人物だ」とした。 しかし、メガデスはデスメタルバンドではなくスラッシュメタルバンドであり、また犯人もメガデスを聴いた事実はなかったため、ハードロック・ヘヴィメタル論壇雑誌『』およびBURRN! 別冊の雑誌『炎』(ほのお)誌上で非難された。 また、1998年の日本公演時のインタビューで当時のメンバーのは「悲しい事件だ」と語ると同時に「俺達のファンがそんな事(殺人事件)はしないと信じている」とコメント。 バンドの中心人物であるはこの事件に関して子供が殺傷事件を起こしたのは親の教育に責任があるとし、歌詞に関するの重要性を訴えると同時に有田の無責任な発言や少年による事件を音楽のせいにしたがるの風潮に苦言を呈している。 発言 [ ]• 『』によると、有田は2016年5月13日、ツイッターでについて、差別の煽動を容認する極右政党と表現した。 同党所属の参議院議員は15日、「(有田氏の発言は)事実無根であると共に公党を著しく侮辱するもの。 法的措置を含めて対応する」と、ツイッターで非難した。 2014年3月24日、とへのを可能にするの承認案の党内論議に自身の所属する民主党が着手したことに関して、「いまなお原発を輸出する原子力協定に賛成する民主党議員がいると聞いて『バッカじゃないの』と答えた」としたうえで、「私はそんな法案には反対票を投じる」とツイートし、反対票を投じる意思を示した。 同年4月18日、参議院で行われたこの原子力協定の承認案の採決で、賛成する党の方針に反してと共に欠席した。 発売の『日本版』2014年6月24日号の記事「『反ヘイト』という名のヘイト」に対して、取材に応じた一人だった有田は、記事の内容や取材方法に問題があるとして、自身の公式Twitterで記者を名指しで非難した。 2013年8月7日付の『』に掲載されたのシングル「」の広告に、独自の解釈を交えての話題に言及する文章を寄稿した。 また、2015年には自身のツイッターで同バンドの楽曲「」を独自の解釈を交えて絶賛した。 、のので、蓮舫に等の関係書類の公開を求めた人々を「差別だ」と非難した。 その一方で、10月に当時の(現・)、の出自を差別する記事がに掲載された際には「これは面白い」と記事評していたため、橋下は有田の人権派面は偽物とし、「自分の嫌いな相手なら面白く、自分の所属する党の代表なら人権問題にするのか」「こいつだけは許せない」と述べている。 更に、戸籍の開示は差別助長と主張に賛同する者に「自称人権派は恥ずかしげもなくよく言うよな。 俺は出自について散々報じられたけど、自称人権派は誰もその報道を批判しなかった。 あの報道に比べれば蓮舫さんの戸籍開示なんてどうってことないこと」と批判し、「だ」「有田、早く辞職しろ」と激怒されている。 2014年7月12日、自身のTwitterで「まだ『』ってあるのかな。 そう思ってコンビニに行ったら、あった。 まだまだ必要なんですね。 ネットでわき寄ってくるゴキブリもどきは放し飼いを基本としている。 時間ができたので久しぶりに『ホイホイ』を覗いたら、相変わらず断片言葉で精神の核がない。 たまには駆除するかな。 」とツイートした。 有権者をゴキブリ扱いをしているとしてネット上で批判の声が上がった。 また、自身の「有権者、納税者に対しての発言」に関して、相手を虫と呼ぶ行為はではないかとの意見に対し、2017年02月06日のtwitterで『たとえば父親が子供に「出て行け」と怒鳴ることがあったり、匿名卑怯なを、わいてでてくる「ゴキブリ」と呼んでも、それは罵倒語ではあってもヘイトスピーチではありません』と自身の発言はヘイトスピーチではないと主張した。 、刊行の写真誌『hunet』(ヒューネット)発行号に「『17歳』差別意識と犯罪までのディスタンス」と題する記事を発表。 この記事は精神障害者への差別を助長するとの理由で、大阪精神障害者連絡会(大精連)から抗議を受けた。 「少年事件と精神疾患との具体的な関わりを一切示すことなく、『精神科の通院歴』が書かれており、『精神障害者は何をするか分らない、危険な存在』という精神障害者に対する社会的偏見を明らかに助長してい」る、というのが大精連の主張であった。 この結果、、は謝罪に追い込まれた。 人物 [ ]• 「と首脳との直接対話を求める声明文」に賛同者として名を連ねている。 5月18日、参議院において、参議院規則の採決を棄権する。 棄権の理由は「内面の理由から判断した」。 参議院は、口頭で注意。 2019年6月11日、しばき隊が投稿したをリツイートしたことをめぐり、名誉を毀損されたとしてを提訴。 「ブログに虚偽記載でに謝罪」 (平成22年)11月9日付、 保守系新聞 第1面によると、「10月20日の有田議員の初質問に自ら泥。 国会は言論の府なので、録音物の再生は議事録に記録されない(録音物の再生とのみ記録される)ルールになっている。 有田議員の質疑時間を確保するために全員の了解のもと議事録を止めたのに、有田議員は「音声再生を自民党の反対で止められた」とブログに虚偽を記載して自民党の攻撃材料にした。 これについて自民党理事の事務所を訪れ謝罪した」と報道されている。 著書 [ ]• 『現代論』白石書店 1985年• 『保守の冒険』白石書店 1987年• 『霊感商法の見分け方』晩聲社 1988年• 『はんパートのおばちゃんでえらいすんまへん』清風堂書店出版部 1989年• 『原理運動と若者たち』教育史料出版会 1990年• 『「」を科学する - の宗教?』天山出版 1991年• 『統一教会とは何か 追いこまれた原理運動』教育史料出版会 1992年• 『歌屋 』 1994年• 『有田芳生の対決!オウム真理教』 1995年• 『追いつめるオウム真理教』ベストセラーズ 1995年• 『私の取材ノート』同時代社 1995年• 『「神の国」の崩壊 - 統一教会報道全記録』教育史料出版会 1997年• 『歌屋 都はるみ』(文春文庫) 1997年• 『闇の男 - 終らないオウム真理教』同時代社 1999年• 『「コメント力」を鍛える』(生活人新書) 2002年• 『私の家は山の向こう - テレサ・テン十年目の真実』 2005年• 『酔醒漫録〈1〉2000. 6』にんげん出版 2005年• 『酔醒漫録〈2〉2001. 6』にんげん出版 2005年• 『酔醒漫録〈3〉2002. 6』にんげん出版 2007年• 『酔醒漫録〈4〉2003. 6』にんげん出版 2007年• 『私の家は山の向こう - テレサ・テン十年目の真実 』(文春文庫)文藝春秋 2007年• 『メディアに心を蝕まれる子どもたち』(角川SSC新書)角川SSコミュニケーションズ 2008年• 『闘争記』教育史料出版会 2010年• 『ヘイトスピーチとたたかう! 』文藝春秋 2013年 共著または共編 [ ]• 『天皇をどう教えるか』(渡辺賢二との共著)教育史料出版会 1988年• 『日本共産党への手紙』(との共編)教育史料出版会 1990年• 『と統一教会のウソ』(との共著)アイペックプレス 1992年• 『脱会 - 報道全記録』(『週刊文春』取材班との共著)教育史料出版会 1993年• 『「あの子」がオウムに! - 子供は「真面目で優秀」が安心か』(『』取材班との共著) 1995年 脚注 [ ] []• 2020年4月2日閲覧。 2019年10月16日閲覧。 『宝島30』()1995年7月号• 朝日新聞2016年7月11日閲覧• 日テレNEWS24 2017年12月10日付• 沖縄タイムス2018年8月29日付• 104. 産経ニュース. 2017年7月16日. 2017年8月19日閲覧。 産経ニュース. 2017年7月16日. 2017年8月19日閲覧。 ビジネスジャーナル• 有田芳生の『酔醒漫録』 2010年5月24日• 月刊タイムス2010年4月号 座談会「追いつめられる統一教会の悪あがき」 信者の「保護・説得」を「拉致監禁・強制改宗」と強弁(16-23頁)• 有田芳生の『酔醒漫録』 2007年5月23日• 読売新聞 2012年10月25日• 東京本部• J-CASTニュース 2013年3月27日. - 2014年7月16日午前11時50分配信• 2017年6月5日. 2017年6月8日閲覧。 2017年6月5日• 「2010参院選 候補者アンケート」毎日jp (毎日新聞社)、2010年6月26日。 2014年4月21日 2014年4月29日閲覧。 日本禁煙学会 2016年6月16日. 2018年8月18日閲覧。 ヘイトと暴力の連鎖-反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター (紙の爆弾2016年7月号増刊)鹿砦社特別取材班 著 [ ]• ヘイトと暴力の連鎖-反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター (紙の爆弾2016年7月号増刊)鹿砦社特別取材班 著 [ ]• 108-119。 「驢鳴犬吠 第22回」『炎』、シンコーミュージック、1997年11月、 pp. 160。 Player(プレイヤー・コーポレーション)1999年2月号 48P• アメーバニュース 2014年3月27日• 産経新聞 2014年4月18日• 2014年6月17日. 2017年7月19日閲覧。 2013年8月12日. 2013年11月16日閲覧。 産経ニュース. 2017年7月19日. 2017年7月20日閲覧。 ガジェット通信 2014年7月13日• livedoor ニュース2017年02月06日• [ ]• 2011年5月19日00時20分配信• 有田芳生 2019年6月10日. aritayoshifu. 2019年6月14日閲覧。 参考文献 [ ]• 余命プロジェクトチーム『余命三年時事日記 外患誘致罪』青林堂〈SEIRINDO BOOKS〉、2016年。 外部リンク [ ]• (公式サイト)• (公式ブログ)• (公式ブログ)• aritayoshifu - 議会 先代: 2016年 - 2017年 次代:.

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「勝利勲章」 世界で最も希少で高価な勲章

ヨシフ スターリン

レーニン廟は、かなりの部分がスターリンの発案だ。 レーニンが死去すると、彼の遺体は一時的にモスクワの同盟会館の「円柱の間」に安置されたが、亡き指導者に弔意を表すため、数万人の共産党員がソ連中から続々と集まってきた。 弔問の代表団がひっきりなしにやって来る間に、レーニンの遺体は腐敗し出した。 その時、スターリンの直接の命令により、レーニンの遺体は防腐処理を施され、霊廟に置かれた。 この措置は、レーニンの意志に反して(その理由について )、また彼の未亡人ナデジダ・クルプスカヤの激しい抗議にもかかわらず、強行された。 まず、木造の霊廟が、後に花崗岩の廟が、いずれも建築家アレクセイ・シューセフの設計により建設された。 誰が本当のボスであるかを示すかのように。 オリジナルの石は、破壊する命令が出されたが、廟の護衛担当のコンスタンチン・モシュコフは、処刑の危険を冒して石を保存した(そして結局のところ、その勇敢な「先見の明ある行動」により、モシュコフは国の英雄となる)。 Public domain スターリンの死とニキータ・フルシチョフの権力掌握の後、ソ連は、鬱屈した全体主義的な過去と決別しようとしていた。 1956 年のソ連共産党第 20 回大会で、フルシチョフは、スターリンと、その個人崇拝、独裁を非難する有名な演説を行った。 スターリンの記念碑の撤去がソ連全土で始まった。 そしてスターリンが廟から運び出されることも明らかとなった。 なぜなら、スターリンはレーニンの思想を裏切ったから。 最終決定は、ソ連共産党第 22 回大会でなされた。 この決定は、レニングラードの労働者たちからの要請であるかのように装われ、 1961 年 10 月 30 日に党職員のイワン・スピリドノフによって表明された。 二つの遺体を取り巻く不条理はどんどん膨れ上がっていった。 当時 80 歳だったドーラ・ラズルキナは、有名なボリシェヴィキで、レーニンの弟子で信奉者でもあった人物だが、 10 月 29 日にレーニンと「カウンセリング」したと発表した。 「レーニンは、生きているかのように私の前に立ち、『私はスターリンの隣にいるのは不快だ。 当局は、スターリンを今なお支持しているソビエト市民が介入するか、反乱さえ起こすのでは、と恐れたからだ。 10 月 31 日、夜の帳の下で、スターリンの遺体は、まず廟からその下にある研究室に運ばれ、次に廟の建物から運び出されて、クレムリンの壁の傍に埋葬された。 それにしてもなぜハロウィーンの日に行われたのか?それは単なる偶然だと信じている人が多い。 しかし、 10 月 30 日には、世界史上最も強力な核兵器「ツァーリ・ボンバ(爆弾の王様)」の核実験が、北極海のノヴァヤ・ゼムリャ島で実施されている。 だから翌 31 日に新聞の見出しになったのは、この爆弾のほうであり、スターリンの改葬はほとんど見過ごされてしまった。 抗議などもなかったが、それでも、そうした状況に関係なく、事は秘密に行われた。 11 月 7 日( 1917 年の 10 月革命の記念日)に行われるパレードの準備のためという名目だっだ。 廟の側面は段ボールで覆われていたため、広場を行進した兵士でさえ何も見えなかった。 約 30 人の最も献身的な(そして寡黙な)、秘密警察「 KGB 」と軍の将校が改葬に関与した。 スターリンの親族は立ち会わなかった。 スターリンの遺体は、木製の棺に入れられ、蓋は釘で固定された。 さらに、墓はコンクリート板で覆われた。 スターリンは、葬儀、オーケストラ、敬礼なしでクレムリンの壁の傍に埋葬された唯一の人物だ。 翌朝、廟は再び開館したが、中にはレーニンの遺体だけがあった。 だから、これを保存したモシュコフは結局、正しかったわけだ。

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