徳川家康 かわいい。 徳川家康の年表を簡単にまとめてみた。

静岡観光で歴史を感じよう!徳川家康ゆかりの地巡り8選

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観光しながら歴史を学ぶなら静岡市文化財資料館 徳川家康ゆかりの地を巡る際に、歴史を知っているとより観光が楽しめます。 歴史について詳しく知りたいと思ったら、ぜひ静岡市文化財資料館に立ち寄りましょう。 静岡浅間神社内にあります。 静岡浅間神社に関する資料を中心に、徳川家に関する貴重な資料も保管・展示されています。 【名前】静岡市文化財資料館• 【住所】静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1• 【電話】 054-245-3500 徳川家康が静岡に築城した駿府城を観光 駿府城は1399年に今川泰範によって築城されました。 その後、徳川家康が領有し近代城郭として天守が築造されます。 徳川家康が征夷大将軍を引退した後、この駿府城を居城に選びました。 また「大御所」として実権を握っていた為、駿府は江戸をしのぐ政治・経済・文化の中心地となりました。 その後、息を引き取るまで暮らしており、徳川家康ゆかりの地巡りとしては外せない観光地です。

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【徳川家康のエピソード】「儀」を重んじた家康のエピソード

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スポンサーリンク 徳川家康の妻たち 20人 1人目 今川義元の姪 「築山殿」 最初にご紹介するのは、家康の最初の妻・「 築山殿」です。 しかし謎が多い。 家康とは同い年という説と、1歳年上はたまた一回り年上という説があります。 今でこそ女性のほうが一回り年上って普通になってきていますが、戦国時代ではまずありえません。 私は1歳年上説が有力だと思いますね。 かなり嫉妬深く気位の高い女性だったので、一回り年上説が出たのではないかと思います。 築山殿がトラウマになったのかはわかりませんが 笑 以降家康は、身分の低い女性を好んだといわれています。 そんな築山殿ですが、武田家との内通疑惑の疑いをかけられ、あっけなく殺されてしまいます。 原因は嫁姑関係。 息子の信康と妻の徳姫の夫婦関係は当初は良好で娘も2人産まれますが、肝心の跡取りがなかなか誕生しない。 徐々に夫婦関係も悪くなり、姑である築山殿が「跡取りも産めぬ女など妻ではない」などと、きつい言葉を吐いたりしたみたいですね。 そこへ追い討ちをかけるように、以前は武田の家臣で後に徳川の家臣となった者の娘を側室に迎えるのでした。 徳姫としては、女心ズタズタですよね。 ここから築山殿悪女説が出たのだと思いますが、徳姫はなんと信長の愛娘。 信康とはもともと政略結婚でした。 傷ついた徳姫は、父・信長に書状を送ります。 内容は「築山殿は武田と内通している。 夫の信康に自分悪口を風潮している」などでした。 それでなくてもキレやすい信長は、家康に「築山殿及び嫡男の信康を処刑しろ!」と命令します!苦渋の決断を迫られた家康。 妻である築山殿は、家臣たちに殺害させ、信康には切腹を命じたのでした。 通常側室は何人いても、正室は1人ですよね?家康の場合、先に築山殿が亡くなっているので、正室が2人いるわけです。 今でいえば先妻と後妻ですね。 2人目 朝日姫 次にご紹介するのは、2人目の正室「 朝日姫」です。 姫っていうからにはどこぞの姫って思いませんか?実は豊臣秀吉の妹でした。 笑 でもこの人、家康の妻の中で一番不幸だったのではと思うのです。 実は彼女、別な男性と結婚していたのです!じゃあなぜ家康の正室なの?ってなりますよね?豊臣家を磐石のものとするため、兄・秀吉が無理やり離縁させて、築山殿亡き後やもめとなっていた家康の正室として朝日姫を差し出したのです。 朝日姫は内心嫌でも、兄の命令には逆らえなかったようです。 政治に利用された朝日姫。 本当かわいそうです。 それでも、悲しみを胸に抱いて大坂城から家康のいる駿府城へ輿入れしたのです。 大阪から静岡ってちょっと距離ありますよね。 さぞ道中不安だったに違いありません。 涙 しかも 年齢が44歳と、当時として高齢の輿入れでした。 家康も45歳。 2人は意外と年齢が近かったようです。 笑 そして朝日姫は駿河に居を構えたので、人々から別名「駿河御前」ともいわれました。 しかし、母・大政所の病気を理由に大坂へ戻ったきり駿河には帰らず、自身も病の身となって47歳の若さで亡くなってしまいます。 戦いに翻弄された悲劇の女性ですよね。 この朝日姫、ドラマや映画でも美人とブスな女優さん半々ぐらいが演じられているところがおもしろいですね。 秀吉の妹なので、醜かったのではともいわれていますが、肖像画はそれほど醜くありませんね。 近年では大河ドラマ「真田丸」の清水ミチコさんの印象が強烈でした。 終始無言の仏頂面。 笑 3人目 小督局 次にご紹介するのは、家康の最初の側室「 小督局」です。 彼女は、別名「おこちゃ」「於万の方」ともいわれました。 実は小督局、家康築山殿の侍女(雑用や身の回りの世話をする女性)として働いていた人でした。 ところが、家康の風呂の世話をしていたときに、お手付きとなってしまいます。 笑 そして子供を身ごもるのですね。 なんと産まれた子供は、双子の男子でした。 現在ではありえないことですが、昔は「畜生腹」といって双子は忌み嫌われる存在でした。 結局、一人は実家の永見家へ預けられることになったのです。 もう一人はというと、於義伊と名付けられしばらくは手元で育てられましたが、家康は「誠にわしの子か?」って疑うのですよ。 侍女が他の男と関係するってまずありえないと思います。 於義伊が2歳のときにようやく父子の対面をしたほどでした。 家康疑い深いですね。 苦笑 その後、於義伊は11歳で秀吉の養子になり、元服して「秀康」と名乗りますが、秀吉に実子・秀頼が誕生したことから、肩身が狭くなり結城家の娘と結婚したことを期に、婿養子になると、結城秀康と名乗りました。 母である小督局も我が子秀康に着いて、福井へ移住。 秀康が34歳の若さで亡くなると、家康の反対を押し切って、髪を落とし出家。 小督局自身は72歳と長生きでした。 4人目 「西郡局」(にしごおりのつぼね) 次にご紹介する女性は、家康初の側室といわれる「 西郡局」(にしごおりのつぼね)です。 西郡局は、今川家の家臣・鵜殿長持の娘で、父・長持が家康と戦い敗れた際、なんと家康への忠誠への誓いとして、娘を側室として差し出してしまったのです。 戦国時代は当たり前だったのかもしれないけど、かわいそうだし、親父なにを考えているんだよ!っていってやりたくなりました。 このとき、まだ家康も若く21歳。 けれど、西郡局も正室の築山殿同様生年が不詳なのですよね。 家康が若い頃なので、同年代が10代後半ぐらいの女性だったのではと、考えられます。 3年後には次女・督姫が誕生!その後、督姫も北条氏政の嫡男・北条氏直に嫁ぎますが、夫・氏直が30歳で病死したため、秀吉の仲介で池田輝政という武将と再婚しました。 西郡局自身は、京都の伏見城で、慶長11年(1606年)に亡くなっています。 5人目 西郷局 ここからご紹介するのは、「 西郷局」です。 通称「お愛の方」と呼ばれた西郷局は、これまでの側室と比べると身分が低く、下級武士の子供として産まれました。 西郷局は、家康より9歳年下で、母が服部平太夫という人物と再婚しています。 「服部」って苗字に見覚えありませんか?実は、西郷局の義父は伊賀忍者の服部一族の1人だったのです。 西郷局自身も一時期「服部姓」を名乗っていました。 その後西郷局は成長すると、先妻を亡くした従兄の西郷義勝の後妻になるのです。 つまり西郷局は、最初から家康の側室ではなかったのです! しかも、最初の夫である義勝の主君はなんと家康!主従関係からのある意味兄弟という複雑な人間関係が。 笑 この時代、主君の側室を家来に下げ渡す行為は一般的でしたが、家来の妻を主君がもらい受けるってのは、珍しい気がしますね。 それには家康なりの理由が。 義勝との間に、1男1女を設けますが、義勝は武田軍との戦いで戦死してしまいます。 未亡人となった西郷局。 家康は不憫に思い自分の側室にしたのです。 西郷局は、それは美人で優しかったので、家康のみならず家臣や侍女たちからも好かれたようです。 容姿や性格のみならず、家康は西郷局が未亡人という点を好んで側室にしたのです。 俗に「後家好み」とディスられる家康ですが、苦笑 この時代いくら美人で優しくても跡取りを産めない女性だと石女(うまずめ)といって、離縁されるケースがありました。 なので子供が産める女性かどうかが重要で、わかりやすかったのが子持ちの未亡人。 西郷局は家康の身体検査に合格したってわけです。 そんな西郷局にも弱点が!極度の近眼でした。 自身の目が悪いこともあり、世の盲人の女性たちに食べ物や衣服をただで与えたるなど、今でいう「福祉活動」に力を入れていた女性。 目が悪くても聖母のような女性だったのだろうと推測できますね。 家康お目が高い。 笑 けれど蜜月は長くは続きません。 家康との間に男子が2人産まれると28歳の若さで亡くなります。 なんと、2人うち1人の息子が後の2代将軍・徳川秀忠!家康は、一番愛した女性の子供を将軍にしたかったのだろうと思います。 6人目 お梶の方 次にご紹介するには、「 お梶の方」です。 彼女なんと家康とは36歳も歳が違ったのです! 家康49歳のとき、お梶の方はなんと13歳!今なら犯罪です。 苦笑 家康の寵愛ぶりはすごかったようです。 実はお梶の方、いったん松平正綱に下げ渡されますが、わずか1カ月で家康のもとへ舞い戻ってきます。 正綱と仲が悪かったわけでなく、家康の子供を身ごもっていたから戻ったというのが、真相のようです。 なんとも間が悪いですね。 苦笑 若くして側室になったり、家康の家臣の妻になったりと、ロリータ的女性なのではと想像される方も多いかと思いますが、実は真逆で「男勝り」な女性でした! なんと関が原の戦いで、家康の出陣に女性でありながら、男装して同行しているのですよ!すごいですよね?実際に戦ったのかまでは不明ですが、女性なので槍で突いたりはしたのだろうと考えられます。 家康は男勝りな気質も気に入り、「 お勝の方」と改名させたのですね。 「そなたがいたいから戦に勝った!だから勝と名乗れ!」と。 笑 その後、お勝の方は30歳のときに家康の最後の子供あたる「市姫」を出産しています。 家康の元へ返されたときの子供はどうしたの?って思いますよね?どうやら産まれたという情報がないので、残念ながら流産したのだろうと推測されます。 この市姫もわずか4歳で亡くなってしまいます。 子供運がないのでしょうか。 かわいそうに思った家康は、お勝の方を別の側室の子・鶴千代(後の水戸藩徳川家の祖・徳川頼房)の養母にしたのでした。 家康の優しい計らいだと思います。 7人目 「 阿茶局」(あちゃのつぼね) ここからのご紹介は、「 阿茶局」(あちゃのつぼね)です。 彼女の父は、武田家の家臣でした。 まあまあいいところの出なのです。 そして、神尾忠重という武将に嫁ぎ、2人の男子を産みますが、幸せな生活は長くは続きませんでした。 夫・忠重が亡くなり、2人の子供を抱えて今後どうしたらよいかと、不安になっていたところ、突如家康の側室になることが決まります。 前述のお梶の方もそうですが、阿茶局も美人に加え、馬術や武術が得意な女性だったので、戦いに同行したようです。 家康は強くて美しい女性が好みだったのでしょうか? 笑 そんな阿茶局は、信長が本能寺で亡くなったことに伴う跡目争いで、信長とともに亡くなった嫡男・信忠の長男・三法師を擁立する秀吉派と、信長の次男・信雄を擁立する家康派の戦いである「小牧・長久手の戦い」に同行します。 しかもこのとき、家康の子供を身ごもっていました。 結局は馬に乗ったり走りまわったりしたので、流産してしまいます。 残念ながらそれ以降家康の子供を妊娠することはありませんでした。 家康は阿茶局を手放さず、実母・西郷局を亡くした秀忠・忠吉兄弟の養育係として手元に置き続けました。 普通なら子供のできない女性は用済みって感じで里へ返されるのが普通な時代ですが、家康は有能な部下として阿茶局に一目置いていたのだと思います。 縁を感じるのは、前夫との間に産まれた息子・神尾久光が後に秀忠の家臣となりました。 家康の度量の大きさがうかがえますね。 血がつながらないからといって、ないがしろにするのではなく、ちゃんと役職を持たせる。 愛する女性の息子っていうのもあるかもしれませんが。 老いても尚、阿茶局の手腕は衰えを知りませんでした。 ある日、方広寺という寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」などと刻まれたため、家康は「これはわしに対する呪詛だ!」と主張!大仏開眼供養の中止を求めるのですが、豊臣側は聞く耳を持たない。 そこで交渉役として阿茶局登場!凄いですよね。 一側室の域を越えています。 さらには、大坂冬の陣のときも、徳川方の使者として大坂城へ向かい、淀殿と対面して交渉にあたっているのです。 女性でいるのがもったいないですよね。 男性なら徳川を代表する有能な家臣になったに違いありません。 家康が亡くなると、他の側室たちみな剃髪したのですが、阿茶局だけ髪を落とさずそのままでした。 どうやら家康の遺命(故人からの命令)があったようですね。 自分の死後も活躍してほしいとの思いがあったのでしょうか?極めつけは、竹橋に屋敷まで与えられる好待遇! その後、秀忠の娘・和子が朝廷へ后として、入内するときも母変わりとして付き添い役を引き受け、さらには和子の夫にあたる後水尾天皇から「従一位民部卿」という偉い位まで授けられました。 ここまでくると、現代でいえばキャリアウーマンでしょうか? 我が子同然のように育てた秀忠が54歳の若さで亡くなると、ようやく剃髪したのですね。 「私の役目は終わった」と、見届けた感があったのかもしれません。 阿茶局自身は、秀忠が亡くなった5年後に83歳で亡くなりました。 側室の中では、一番長生きですね。 8人目 下山殿 次にご紹介するのは、「 下山殿」です。 下山殿は、もともと父親が武田家臣の秋山越前守という人なのですが、なんと信玄の娘ではないという説もあるのです!真相は藪の中ですが、もしも信玄の娘ならばもう少し優遇されたはずだろうし、詳しい史料が多く存在するはずなので、私は家臣の娘説が有力だと考えます その後、穴山信君の養女になります。 養父・信君が武田家から織田家の家臣に鞍替えしたとき、織田家を通じて、下山殿は家康の側室に。 翌年には、家康の五男にあたる信吉が誕生。 信吉の「信」って字がやはり武田家ゆかりの者ということを表現したかったのでしょうか? しかし、 下山殿は28歳の若さで亡くなります。 短命の家系だったのか、忘れ形見である信吉も21歳で亡くなってしまいます。 9人目 お松 次のご紹介は、「 お松」という女性です。 ほとんど、史料がないほどの謎多き女性で、家康のご落胤といわれる「松平民部」という武将を出産しています。 生年や没年、出生地ともに不明!逆に気になります。 笑 息子の民部に関しては、家康が厄年のとき(おそらく42歳)に産まれ子供だったため、疎まれたのです。 不憫に思った異母兄の次男・秀康が自分の養子にして、大坂の陣に参戦したりもしますが、35歳で亡くなります。 スポンサーリンク 10人目 茶阿局 ここからは、「 茶阿局」です。 先ほどご紹介した「 阿茶局」と混同しそうですが、全くの別人です。 笑 茶阿局は、最初鋳物師の妻でした。 武士の妻ではなかったのですね。 夫と娘とともに慎ましく幸せに暮らしていましたが、自身が美人であることが、生活を一変させてしまいます。 村の代官が、茶阿局の美貌に横恋慕してしまうのです。 思い余った代官は、寄りによって鋳物師の夫を闇討ちにして殺害!この後茶阿局のとった行動がすごい!夫の仇をとってほしいと、鷹狩りにきていた家康に直訴!家康も「わかった!」と仇を討ってくれたのです。 家康は美貌もさることながら、物おじせず直訴する姿に一目ぼれしてしまいます。 笑 半ば強引に娘とともに浜松城に連れ帰ることに!代官の立場は!笑 ほどなくして、家康の6男にあたる忠輝、その2年後には松千代が誕生。 しかし、松千代は6歳で夭折していまいます。 忠輝に関しては、家康が異様に嫌ったのです。 なぜでしょう?深く寵愛した女性の子供ならかわいいはずなのに。 実は、ある理由が隠されていました。 忠輝の面差しが自害に追いやった長男・信康に似ていたことが理由でした。 似ているだけで嫌うなんて忠輝がかわいそう。 茶阿局自身は、阿茶局とともに徳川家の実務的ポジションで活躍。 北政所(秀吉の正室)や伊達政宗(息子・忠輝の岳父)との交流があったようです。 家康が江戸から駿府へ隠居のため移住したときも、一緒に移住。 家康死後は、再び江戸へ引っ越して静かにこの世を去りました。 11人目 お仙 次にご紹介するのは、「 お仙」は、武田家の家臣・宮崎泰景の娘として産まれました。 徳川家の奥勤めをするうちに、側室にされます。 家康との間に子供はできなかったそうです。 家康は結構武田家家臣の娘を側室にしていますね。 身分の低い家の娘が好きだといわれているので、何だか意外な気がしますね。 12人目 お久の方 次のご紹介は「 お久の方」です。 お久の方は、北条氏の遠縁・後北条氏の家臣・間宮康俊の娘でした。 後に家康の側室となり、家康の4女にあたる松姫を出産するも、松姫はわずか4歳で早世してしまいます。 お久の方自身は、家康の後を追うように、家康死去の翌年、元和3年(1617)に亡くなります。 生年が不明なので、何歳で亡くなったかも不明。 13人目 お亀の方 ここからのご紹介は、「 お亀の方」です。 お亀の方は今までの女性とはちょっと違うのですね。 京都の寺の娘として産まれます。 その後、竹腰正時という武将の妻となりますが、幸せは長くは続かず、長男・正信が産まれると、夫は病死。 未亡人となったお亀の方。 そんなとき、秀吉の馬廻組頭として仕えていた石川光元の側室として見初められます。 光元にはすでに正室がいて、この正室がすごく嫉妬深い人だったのですね。 それでも、2人の間には光忠という男子が誕生。 しかし、かえって正室の嫉妬を増幅させる形となり、お亀の方は郷里へ返され、離縁されてしまいます。 子供を養うため、奥勤めとして働きに出ます。 そこで、今度は家康に見初められ側室に。 笑 家康とは年齢差が32歳もあったのでほとんど親子のような感じです。 苦笑 翌年には仙千代、さらに5年後には義直を出産します。 仙千代は残念ながら6歳で早世しますが、弟の義直は後の尾張徳川家の祖となる人物! それぞれ違う男性の子供を産んでいるお亀の方。 ある意味、一時期話題となりました某大家族ドキュメンタリーの女性のようです。 苦笑 子供たちはどうなったのかというと、最初の夫との長男・正信は、将軍職を退き大御所となった家康の側近として召し抱えられることに!後年には、異父弟・義直の後見役を仰せつかるのでした。 2番目の夫との間に産まれた忠光もまた、異父弟・義直のお付きの者となり、大坂冬の陣・夏の陣に参戦しています。 家康は連れ子たちを冷遇せず、結構取り立てていますね。 残念ながら忠光は35歳の若さで亡くなってしまいます。 一方お亀の方は家康の死後、我が子義直に付き添って尾張(現在の名古屋)で生涯を閉じます。 波乱万丈な生涯ですが、子供にも恵まれ晩年は穏やかに暮らせたのではと思います。 14人目 お万の方 続いてのご紹介は、「 お万の方」です。 このお万の方、結構流転の人生を歩んでいるようで、正木頼忠という武将の娘として産まれますが、伯父が急死すると代わって父が後を継ぐため、小田原での人質生活から一転実家のある上総(現在の千葉県)へ戻ることに。 家庭の事情により、妻子とも離縁。 お万の方の母はほどなくして、後北条家の家臣・蔭山氏広と再婚し、お万の方は蔭山家の養女に。 義父の氏宏は、それは信心深い人で日蓮宗に帰依していました。 義父の影響かお万の方も日蓮宗に傾倒していったようです。 お万の方17歳のときに、伊豆の三島の宿で女中として働いてところ、なんと家康が客として泊まりにきたのですね。 そこでお万の方は「かわいい子がいるぞ」と家康に見初められ側室になったのです!このとき 家康54歳!若いころは、「後家好み」といわれた家康も年齢が上がるにつれ「やっぱり若いのがいい」となったようです。 苦笑 15人目 お夏の方 次にご紹介するのは、「 お夏の方」です。 別名「お奈津の方」ともいわれますが、ここではお夏の方で統一させていただきます。 お夏の方は、伊勢の浪人である長谷川藤直の娘として誕生します。 お夏の方には、兄・藤広がいました。 藤広が30代のときに家康に仕え始めます。 14歳下のお夏の方も兄にしたがって奥勤めとして奉公に上がります。 すでにロリコンと化していた家康。 またも側室にしてしまいます。 笑 ときに 家康56歳でした。 その後、大坂冬の陣には同行、夏の陣では家康が出陣して留守となった伏見城の留守役も仰せつかるほどでした。 そんなお夏ですがとても長生きて家康の孫で4代将軍・家綱の代まで生きたのです。 享年80歳。 家綱は、曾おじいさんの側室ということで大事に接していたようです。 残念ながら家康との間には子供はできませんでしたが、幸せな晩年を過ごしたようです。 16人目 お竹の方 ここからは、「 お竹の方」をご紹介!この女性、出生から謎なのです。 一番有力とされているのが、家家臣・市川昌永の娘という説。 その他の家臣の娘という説もあり、驚きなのが、武田信玄の娘説もあるのです。 信玄の娘だったら、絶対に正室として迎えいれているはずなので、家臣説が有力だと思いますね。 天正8年(1580年)に振姫という女子を出産。 その後、家康とともに駿府へ移住し、ひっそりと亡くなりました。 17人目 お梅の方 続いては、「 お梅の方」です。 お梅の方は、家康の母方の祖母・華陽院の姪にあたる女性でした。 つまり、家康の母とは従姉妹同士だったのです。 それなのに、家康の側室っていいのでしょうか? 苦笑 お梅の方自身は、豊臣家家臣にあたる青木一矩の娘として産まれました。 家康の親戚ということで、15歳で奥勤めに。 しかしまたも家康の側室に。 笑 このとき、家康は還暦手前の59歳で、お梅の方は15歳! 家康としては、現代に産まれていたらまずいですね。 苦笑 その後、家康の腹心である老臣・本多正信の嫡男である本多正純の後妻にされます。 いわゆる「拝領妻」となったわけですが、正純は複雑な気持ちではなかったかと思いますね。 いくら素敵な女性でも、いわゆる上司の妾を貰うって感じなので。 結局、家康や正純との間にも子供は産まれなかったようです。 しかも、時代の流れには逆らえず、家康が亡くなると息子の秀忠の時代になり、「先代の家臣」である正純は次第に疎まれ、ついには横手(現在の秋田県横手市)に幽閉されてしまいます。 秀忠の治世になり、力をつけ始めた側近の土井利勝の陰謀だともいわれています。 そのころお梅の方は、剃髪し尼となっていろいろな地域を転々としたそうです。 18人目 お牟須の方 次にご紹介するのは、「 お牟須の方」です。 お牟田の方の父も武田家の家臣でした。 側室の武田家家臣の娘率が高いこと!家康の趣味だったのでしょうか? 父である三井吉正は、本能寺の変が起こった後、旧武田領が家康の支配下となり、家康の家臣に。 娘のお牟須の方は同じころ奥勤めとして奉公に上がります。 またも家康、手を出すのですね。 苦笑 ほどなくしてお牟須の方は家康の側室となります。 それから、秀吉による朝鮮出兵(朝鮮を日本の植民地にしようと、秀吉が仕掛けた戦争)があり、家康は秀吉の命令で九州の肥後国(現在の熊本県)に陣を取り、朝鮮出兵の命令が下るまで城で待機することに。 そんなどさくさの中、お牟須の方は、身重の身体で家康に付き添い肥後へ来ていたのです。 ほどなく、出産しますがかなりの難産だったため、母子ともに亡くなってしまいます。 家康の心中はいかばかりか。 妻と子が同時に亡くなったので、かなりの傷心だったと思います。 そもそも、家康って側室も戦いに付き添わせていますよね?妻子の安全を思ったら江戸や駿府にとどめるべきだと思いますね。 いわゆる身の回りの世話(夜の生活も含め)をさせたかったからが一番だと推測します。 この辺は男の身勝手だと思いましたね。 19人目 富子 ここからのご紹介は、「 富子」です。 富子ってだれやねん! と突っ込まれそうですが、ほとんど情報がない謎の女性。 わかっていることは、父は山田氏という武将ということと法名が「信寿院」というぐらいで、いつ家康の側室になったのかも不明。 この時代名前に「子」がつくのって、結構位が高い女性にしかつけられないので、それなりの身分の女性だったのではと思います。 20人目 三条氏 次にご紹介するのは、三条氏です。 数々の妻たちをご紹介してきましたが。 唯一名前が不明な女性なのですね。 三条というと、藤原氏の流れをくむ公家なのです。 しかも青年や没年などがことごとく不明。 しかし、いくつか意外な事実が浮かび上がってきます。 秀吉の妹・朝日姫の侍女をしていたようです。 朝日姫には指一本触れなかった家康。 当時「大さん」と呼ばれていた三条には手を出します。 笑 天正17年(1589)には、家康のご落胤とされる小笠原権之丞を出産。 家康としてはまずいことをしてしまいます。 天下の秀吉の妹を差し置いて、侍女のほうを妊娠させてしまったのだから。 そこで家康は、身重の三条を自身の家臣・小笠原広重の次男・正吉の妻にしてしまいます。 要は自分の後始末を押し付けたのでした。 私はこの辺りの家康好きじゃないですね。 それで、権之丞は正吉の実子として育てられました。 自身の出生の秘密に悩んだのか定かではありませんが、次第にキリスト教に傾倒。 信長亡き後キリシタンは厳しい弾圧を余儀なくされていました。 大坂夏の陣の「天王寺の戦い」では、なんと豊臣側として参戦し戦死してしまいます。 実の親子でありながら、家康とは敵対して亡くなったのです。 なんとも哀れですよね。 ラスト お六の方 最後のご紹介は、「 お六の方」です。 お六の方は、今川家の家臣・黒田直陣の娘として産まれ、成長すると、家康の側室となっていた「お梶の方」の部屋子として働き始めました。 その後、 家康の側室となり、なんと歳の差55歳! 家康の晩年は、なんの反動なのでしょうか?とにかく若い女性が好みだったようです。 笑 大坂冬の陣にお供したりしたお六の方。 けれど2人の間には子供はいなかったそうで、家康亡き後一旦は尼さんになりますが、還俗して喜連川義親(きつれがわよしちか)という武将の後妻に入ります。 しかし家康の後を追うように、お六の方は家康の死から9年後、29歳の若さで亡くなってしまいます。 生前、「佐渡殿、鷹殿、お六殿」といううたい文句が広まりました。 これは、家康の腹心は佐渡殿(家臣・本多正信)で、趣味は鷹殿(鷹狩りが一番の趣味)、側室であるお六が家康の夜の生活の一旦を背負っているとの、皮肉交じりの言葉が流行ったそうです。 まとめ 1 家康は後家好みといわれたが、晩年はロリコンになっていた。 2 身分の低い女性が好きといいながら、割と武田家家臣の娘を側室にしていた。 3 父親の認知をしないご落胤が2人ほど存在した。 4 数名生年や没年、出身地など不明な側室がいた。 5 戦場に側室も一緒に連れて行くことが多かった。 こうして見ると様々な妻たちでしたね。 私が気になったのは、正室の築山殿と側室の尾万の方ですね。 築山殿は、今川義元の姪とうことで気位の高い人だけれど、本当は家康を愛していて素直になれなかっただけではと。 だからこそ最期が不憫でしたね。 一方のお万の方は、家康に臆することなく自分の意見を堂々といって、僧侶の命を助けた。 女性で産まれたことがもったいない人だと思いましたね。

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家康公の生涯

徳川家康 かわいい

、 異父弟:、、 妻 : : :、、、、、、 子 、、、、 、、、、、、、、 徳川 家康(とくがわ いえやす、: 德川 家康)は、から初期にかけての・ ・。 9代当主でや、の始祖。 旧称は 松平 元康(まつだいら もとやす)。 戦国時代に終止符を打ち、朝廷よりに任ぜられを開く。 のひとり。 はの・。 幼名は竹千代。 通称は次郎三郎のちに蔵人佐。 諱はよりを受けて元信(もとのぶ)次いで 元康と名乗るが、から独立した際に「元」を返上して 家康に改める。 され永禄9年12月29日()にに改姓。 は私的にはを称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際しと称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるが、天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。 概要 [ ] 幼少期をついでの下で人質として過ごす。 3年()、でのの討死を機に今川氏から独立してと同盟を結び 、・に版図を広げる。 信長が天正10年()ににおいて死亡するとを制して・を手中に収める。 信長没後に勢力を伸張したとで対峙するが 、後に秀吉に臣従。 後はの旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。 秀吉晩年にはに列せられ大老筆頭となる。 秀吉没後の5年()ににおいて西軍に勝利。 慶長8年()にに任命されにを開く。 慶長20年()に豊臣氏を滅亡させ、日本全国を支配する体制を確立。 15世紀後半に起こったから100年以上続いた戦乱の時代(・)が終結。 家康がその礎を築いたを中心とする統治体制は後にと称され264年間続くを画した。 死後はに祀られをとする 東照大権現(とうしょうだいごんげん)としてされ、「」 しんくん 、「」 とうしょうぐう 、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれてされる。 また、江戸幕府の祖として「神祖」 、「烈祖」 などとも称された。 の暦法は便宜上、とする。 幼少期から初陣 [ ] のであるの第8代当主・のとして11年(1543年1月31日)(午前4時頃)に にて誕生。 母はの娘・(伝通院)。 幼名は 竹千代(たけちよ)。 3歳のころ、水野忠政没後に当主となった(於大の兄)が尾張国のと同盟したので織田氏と敵対するのに庇護されている広忠は於大を離縁。 竹千代は3歳にして母と生き別れになる。 天文16年()8月2日 、竹千代は数え6歳で今川氏への人質としてへ送られることとなる。 しかし、駿府への護送の途中に立ち寄ったで義母の父・の裏切りにより、のへ送られた。 だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国のの屋敷に留め置かれた。 このときと知り合ったという伝説があるが、史料にはない。 また、近年の研究 では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。 2年後に広忠が死去する。 は織田信秀の・ との人質交換によって竹千代を取り戻す。 しかし竹千代は駿府 に移され、岡崎城は今川氏から派遣された(やなど)により支配された。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、には今川氏の城代が置かれていたため入れず、に入った。 天文24年()3月、駿府の今川氏の下でし、今川義元からを賜って 次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪での娘・瀬名()を娶る。 名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい 蔵人佐元康と改めている。 なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係についてはとの関係を考慮する必要があるとする指摘もある。 吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏の一つで、今川氏の宗家筋であった。 吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠は、松平清康は、松平広忠はの偏諱を得たと推定されている。 今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる。 当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており()、元年()2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡主・を攻めた。 これがであり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。 この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付 し、腰刀を贈った。 永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。 これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた。 清洲同盟から三河国平定 [ ] 徳川家の"(徳川葵)" 永禄3年()、で先鋒を任され、のが城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。 しかし織田軍は大高城を包囲しており、を運び込むには包囲を突破する必要があった。 そこで5月18日、との間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。 翌19日、丸根の砦を攻め落とし、は鷲津の砦を攻め落とした。 義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。 松平家の菩提寺であるに入り、自害しようとしたが住職のに諭されて考えを改める。 その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする。 また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある。 更に近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒したがこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている。 永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上してとの直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている。 4月、元康は東三河における今川方の拠点であったを攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした。 折しも今川氏の盟友であった、は、・を奉じた長尾景虎()の関東出兵()への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。 また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある。 この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。 その後も元康はなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。 永禄4年()先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ( )(『史料総覧』巻10)。 同年4月で今川氏との戦いが開始された。 永禄5年()には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている。 一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。 [ ] 永禄6年()には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から 家康と名を改めた。 「家」を選んだ理由は明確ではないが 、は於大の方の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期がある事を指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたとする説を唱えている。 同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代()と信長・娘との婚約が結ばれる。 永禄7年()、が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。 こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。 東三河のやといった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めてのような敵対勢力を排除していった。 遠江国で発生した国衆の反乱()の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間でを主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年()までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。 この際に家康は、西三河衆(旗頭:(後に))・東三河衆(旗頭:)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本にはを新たに置いた。 「徳川」への改姓 [ ] 永禄9年()、からとされに叙任され、直前か同時に「」に改姓した。 これを朝廷に要求する際には多少の工夫を要した。 松平家は少なくとも清康の時代から「支流系統の」であると自称していたが、徳川と事前に改姓していたか、この藤原氏への乗り換えと同時かは不明だが、より「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」と拒否された。 そこで家康はに相談した。 前久は対処したが、がで先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しを譲渡され申請に使用した。 この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は下に叙任された(近衛家文書)。 この先例とされたのはの祖とされる庶流ので、藤原氏となったのは嫡男とその弟で、の世良田改姓とつなげたとの説がある。 この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った。 この改姓に伴い家康は「」を「」としているが、後にに復している()。 今川領遠江への侵攻 [ ] 永禄11年()、信長が室町幕府13代・足利義輝の弟・を奉じての途につくと、家康も信長への援軍としてを派遣した。 同年1月11日、家康はに任命されている(『』)。 左京大夫は歴代の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり 、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動したであったとみられる。 だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた。 同年12月6日、の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると()、家康はを取次役に遠江割譲を条件としてと同盟を結び、13日、の今川領へ侵攻してを攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。 武田氏との今川領分割に関して、徳川氏ではを境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『』)。 しかし永禄12年()1月8日、から武田家臣・(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった。 5月に駿府城から本拠を移した今川氏真のを攻囲。 の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。 氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。 以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。 元年()、岡崎から遠江国のに移ると、ここをと改名し、を築いてこれを本城とした。 も浜松城に迎え庇護する。 また信長を助け、に参戦したほか、・の連合軍とのでは活躍を見せた。 武田氏との戦い [ ] 家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏とのを回復すると駿河今川領を確保する。 信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、ら反織田勢力を糾合してを企てた際、家康にもへの就任を要請し協力を求めた。 しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。 元亀3年()10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻()を開始した。 これにより武田氏と織田氏は手切となった。 家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍にを攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。 『』(所蔵)。 徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、を渡って()にまで進出。 浜松の北方を固める要衝・を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、で敗走する()。 遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。 そして12月、二俣城は落城した()。 ようやく信長から、率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。 対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。 これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。 しかしその結果、、や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした、といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。 家康はに代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。 武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。 () 北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国のを2月には落とされ、城主・が拘束された。 ところがその後、武田軍は信玄の発病によってまで退き、信玄の死去により撤兵した。 武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。 その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。 そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族での一角である・親子を調略し、再属させた。 奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。 武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。 これに対して信玄の後継者であるも攻勢に出て、2年()には東美濃の、遠江を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。 また家臣のらが、武田に内通していたとして捕え、で処刑した。 信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年()5月のでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。 一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊にを奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。 なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・を授けて賞した。 そのうえ、翌年には長女・を正室とさせている。 だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。 軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる。 天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており、懸塚湊や上流のに中国商船が来航して浜松城下にて貿易を行っていたことが知られている。 五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられている。 天正6年()、で急死したの後継者を争うが発生し、武田勝頼はに出兵し乱に介入する。 謙信の養子である(謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の(謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。 翌天正7年()9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。 この間に家康はなどを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。 また同じころ、信長から・築山殿と嫡男・に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。 家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康のが通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。 だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている (の項を参照)。 以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱える事にもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・を返還するなど織田氏との和睦()を模索している。 しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年()、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する()。 高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。 の調略成功をきっかけに、天正10年()2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。 織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃()のをらの説得によりが引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。 勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うとを通過して帰還している()。 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。 家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。 信長はこの接待をことのほか喜んだ。 また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔したが、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いの頃に既に帰参していたとも)。 本能寺の変と天正壬午の乱 [ ] 天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・を訪れた。 6月2日、を遊覧中にでが起こった。 このときの家康の供は衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。 しかしに説得されて翻意し、の進言を受け、の険しい山道を越えを経てから海路で三河国に辛うじて戻った()。 その後、家康はを討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このときから帰還したによって光秀がすでに討たれたことを知った。 一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量のが起こった。 さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。 旧武田領国のうち一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていたは、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国のとは領地を捨て畿内へ敗走した。 また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担ったは一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。 追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。 滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。 このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団であるらを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った()。 一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規やら5万5,000人の軍勢を率いてを越えて信濃国に侵攻した。 北条軍は上杉軍とで対峙した後に和睦し、南へ進軍した。 家康は甲府の・屋敷に本陣を置いていたが、(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと台上の城砦群に布陣し、(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。 ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していたが徳川軍に再度寝返り、その執拗な戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、を使者として家康に和睦を求めた。 和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・が氏直に嫁ぐというものであった。 こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。 小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従 [ ] 豊臣秀吉 信長死後のにおいては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・と手を結び、天正11年()には織田家筆頭であったをで破り、さらに影響力を強めた。 信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫・三法師()を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(『岩田氏覚書』)。 天正12年()3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。 当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧()に着陣した。 秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・らが三河国に出兵した。 4月9日にはにおいて両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した()。 「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。 関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。 小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏やのら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏やの、のら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。 秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸()を秀吉の養子とした。 戦後の和議は秀吉優位であったとされる。 のが自ら、厳冬のを越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。 天正13年()に入ると、のや土佐国の、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。 さらに秀吉は7月11日に関白に補任され、豊臣政権を確立する。 これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。 家康は大久保忠世・・らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している()。 勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」 に見舞われた。 その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にあるの歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。 徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる。 家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派とら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。 同年11月13日には石川数正がして秀吉に帰属する事件が発生する。 この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。 天正14年()に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。 さらに10月18日には秀吉が生母・を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。 家康は10月26日に大坂に到着、邸に宿泊した。 その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。 こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。 この謁見の際に家康は、秀吉が着用していたを所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。 豊臣家臣時代 [ ] 天正14年()11月1日、京へ上り、11月5日にに叙される。 このとき、多くの家康家臣も叙任された。 11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。 12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国のへ移した。 これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。 天正15年()8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に・に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。 この際、秀吉からを下賜された。 同年12月3日に豊臣政権よりが出され、家康に関東・奥両国(・)の監視が託された。 12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷からおよびに任ぜられる。 このことにより、このころの家康は 駿府左大将と呼ばれた。 家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、・氏直父子宛ての5月21日付起請文 で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない• 今月中に兄弟衆を京都に派遣する• 豊臣家への出仕を拒否する場合、娘(氏直に嫁いだ)を離別させる 家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもあるを上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。 天正18年()1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。 家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月にはが豊臣家の城番として岡崎城に入城している()。 なお、これに先立って天正17年()7月から翌年にかけて「」と称せられる大規模なを断行する。 これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。 この直後に秀吉によってへ領地をされてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た知識と経験は新領地の関東統治に生かされた。 18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、・・相模国・上野国・・・の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。 家康の関東移封の噂は戦前からあり 、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが 、結局北条氏の旧領国に移されることになった。 秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。 一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。 ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。 この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石 (徳川家内の「五ヶ国総検地」では実高150万石とも)から関東250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、ほどには実収入を見込めない状況であった。 こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。 阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、の断絶とともに機能停止していた室町幕府のと同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模ではなく、武蔵を居城とした。 なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。 8月1日 に江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要なに配置する とともに、100万石余といわれる直轄地には・・・・・成瀬正一・ら有能な家臣をなどに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。 ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、ので引き上げられるまで継承された。 家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。 国名 領地名 石高 家臣名 備考 上野国 (後に) 12万石 10万石 3. 3万石 3. 3万石 ただし、1. 3万石は父分とされる。 () 3万石 3万石 2万石 2万石 1. 2万石 説もある。 1万石 下野国 1万石 下総国 兼 10. 1万石 4万石 3万石 3万石 2万石 1. 2万石 説もある。 1万石 1万石 1万石 1万石 説もある。 1万石 武蔵国 2万石 2万石 1万石 1万石 1万石 1万石 1万石 2万石とも。 1万石 1万石 1万石 1万石 1万石 上総国 10万石 当初はとも。 3万石 2万石 2万石 相模国 4. 5万石 1万石 伊豆国 1万石 19年()、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけてを総大将とした奥州再仕置軍を編成した。 家康も秀次の軍に加わり、、、、、などの鎮圧に貢献した。 元年()から秀吉の命令によりが開始されるが、家康は渡海することなくに在陣しただけであった。 『家忠日記』にはこの時に・・・が家康の指揮下にあったと記してある。 文禄4年()7月に「」が起きた。 豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。 家康も秀吉の命令で上洛した。 これ以降、開発途上の居城・江戸城よりもに滞在する期間が長くなっている。 豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。 元年()5月8日、秀吉の推挙によりに任ぜられる。 これ以後は江戸の内府と呼ばれる。 慶長2年()、再びが開始された。 日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、の沿岸部で地盤固めに注力した。 このときも家康は渡海しなかった。 慶長3年()、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者であるを補佐するための・の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。 8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。 結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた。 しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くとのは残留であった。 秀吉死後 [ ] 豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。 また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。 その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。 の長女・と家康の六男・。 (家康の甥)の娘と(の養子)。 (の世子)との娘(家康の外孫で養女)。 (家康の叔父)の娘と。 の娘・(家康の姪で養女)と(の嫡男)。 このころより家康は、や、らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。 こうした政権運営をめぐって、・や五奉行のらより「専横」との反感を買い、慶長4年()1月19日、家康に対してのらが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。 利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。 3月3日の利家病死直後、やらが、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。 三成はの協力で大坂を脱出して伏見城内のに逃れたが 、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾してにすることになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。 結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られているの仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され 、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。 もっとも、家康と三成は対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、家康は中立的な立場からの解決して双方の均衡を保とうとしたが、それが却って政争を悪化させたとする見方もある。 9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。 9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、のにおける祝意を述べた。 9月12日には三成の兄・の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 9月9日に登城した際、・・・の4名が家康のを企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして 、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中でさせ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国の佐竹義宣のもとへ追放とした。 さらに利長に対してはを企図するが、利長が生母・を江戸に人質として差し出し 、出兵は取りやめとなる。 これを機には完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。 またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。 のに1万石を加増。 その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)。 ・12万石のに・5万石を加増。 ・7万石のを・13万7,000石に加増移封。 ・のに・6万石を加増。 ・のに5万石を加増。 5年()、に(オランダ船)のが漂着した。 家康はリーフデ号をへ移し、航海長の(後の三浦安針)や船員のは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。 特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された。 関ヶ原の戦い [ ] 詳細は「」を参照 慶長5年()3月、越後国のから会津の上杉景勝の重臣・に越後にあった年貢の下半期分まで持ち出された訴えを、のらからはの軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。 更に上杉氏の家臣でを務め家康とも懇意にあった避戦派の、の二人が、会津から江戸のの元へ上杉の行動に関する釈明をしようとする途中で、兼続の仕向けた使者達に襲撃され、国時が殺害される事件まで起きた。 これに対して家康は、を正使として景勝の元へを派遣した。 ところが、既に徳川との一戦を固めていた兼続が、『直江状』(真贋諸説有り。 詳細は参照。 )と呼ばれる挑発的な文書を記した書簡を返書として送ったことから家康は激怒。 景勝に叛意があることは明確であるとしてを宣言した。 これに際してから出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・2万石を下賜された。 これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。 6月16日、家康は大坂城・口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。 ところが、6月23日に浜松、6月24日に、6月25日に駿府、6月26日に、6月27日に、6月28日に、6月29日に、7月1日に、7月2日にという、遅々たる進軍を行っている。 この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。 実際、7月に三成はとともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の状を諸大名に対して公布した。 三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した()。 さらに三成らは、方面に侵攻した。 家康は下野国の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。 家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、に反転すると告げた。 これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将としたが結成されていった()。 東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。 そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし、、本多正信らを付けてからを進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いてから上方に向かった。 それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。 正則ら東軍は、に入ると、の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守るを落とした。 このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。 9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。 前哨戦として三成の家臣・との家臣・が奇襲し、それに対して東軍の、らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・が戦死している()。 家康は自らのでの禅僧である(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による 占筮 ( せんぜい )を行わせ、大吉を得た。 9月15日午前8時頃、美濃国において東西両軍による決戦が繰り広げられた。 開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍のの軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。 さらに、、、らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。 戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだの軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった( )。 9月18日、三成の居城・佐和山城を落としてに進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。 10月1日には、らと共にで処刑した。 その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく・・に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。 秀頼、に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各の領地に含めていた(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。 その結果、豊臣氏は・・の3ヶ国65万石の一大名となり、家康はとしての立場を確立した。 だが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候し豊臣家が西国を支配する二重公儀体制との説がある。 家康のスペイン外交と浦賀 [ ] 鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。 その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し 、西洋事情に詳しいを外交顧問としたという。 家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月、フィリピン総督に宛てて公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。 日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した。 つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。 浦賀にはウィリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。 メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや 、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。 このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。 ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた。 そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、がメキシコとの貿易を希望していたことを思い起こし、宣教師を介して政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号の遣欧に至るのである。 このとき将軍・秀忠はに政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。 この船は江戸内海の口で座礁してしまったが 、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。 家康が開港したスペイン貿易港浦賀の記念碑が建つ横須賀市東浦賀の東叶神社 元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ浦賀湊に帰帆した。 この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。 しかし、家康が死去するとカタリーナに国外退去令が出され、彼らは元和2年(1616年)8月に浦賀を発航した。 これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。 こうして国際貿易港としての生命は絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである。 長崎や平戸は貿易港としてよく知られるが、江戸初期に家康によって浦賀がスペイン商船の寄港地として開港され、貿易が行われていたことは教科書にも記されていない。 この史実を伝えようと、地元の住民によって市民団体が結成され賛助金が集められ、平成31年()4月、神奈川県横須賀市東浦賀の東叶神社境内に「日西墨比貿易港之碑」が建てられ除幕式が行われた。 [ ] 征夷大将軍 [ ] 慶長5年(1601年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白にが家康の奏上により任じられた。 このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る。 二条城の唐門 関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年()3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍としてを開くため、徳川氏ののを行った。 慶長7年()、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まっていなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国に減転封。 代わりにと同じくの流れをくむを継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。 これによって確定した徳川氏の領域は一門・譜代大名の所領も含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国・越前国、西は近江国・山城国・大和国と北伊勢の桑名領をほぼ一円支配するものであった(秋田氏や里見氏などの小規模な外様大名の支配地は除く)。 慶長8年()2月12日、後陽成天皇が・をとして伏見城に派遣。 朝廷より六種八通のが下り、家康を征夷大将軍、、、に任命した。 同年3月12日、伏見城からに移り、3月21日、を纏い行列を整えてに参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。 3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。 また4月4日から3日間、二条城でが行われ諸大名や公家衆を饗応した。 大御所政治 [ ] イギリス王の徳川家康への書簡(1613年) 慶長10年()4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。 同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。 結局、六男・を大坂城に派遣したことで事は収まった。 なお、このとき次世代の家臣であるとも叙任された。 慶長12年()には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに努めた()。 同年、と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していたとの国交を回復した。 慶長14年()、使節と会見。 (使節は国王を自称 )からの親書を受け取り、による交易とにのの開設を許可した。 慶長16年()3月20日に九男・(義直)、十男・(頼宣)、十一男・(頼房)を叙任させた。 「御三家」体制への布石といえよう [ ]。 3月22日には、自らの祖先と称するに鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した。 同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。 当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康はを仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。 この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり 、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる。 同年、(現在の)副王ルイス・デ・ベラスコの使者と会見し、スペイン国王の親書を受け取る。 両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。 この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。 慶長18年()、のと会見。 イングランド国王からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にの開設を許可した。 大坂の陣 [ ] 詳細は「」を参照 晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は脅威であり続けた。 なお特別の地位を保持していて実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、関ヶ原の戦い後にに配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。 また、家康の将軍宣下時には、同時に秀頼が関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られていた。 秀忠の将軍宣下時の官位は内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られており、秀忠を上回っていた。 さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。 将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもあるは未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。 またでも、秀忠の子であるとのどちらが次の将軍になるかで対立していた。 さらにとしたの動向も無視できない存在であった。 もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府にとっては大きな脅威となる危険性があった。 家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。 また、秀吉の遺言を受け、孫娘・を秀頼に嫁がせてもいる。 しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。 さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた。 そのような中、慶長12年()には結城秀康、慶長16年()に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年()には、など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。 また、慶長17年()には佐々成政の外孫であるを関白に推挙している。 そして、慶長19年()のをきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。 方広寺鐘銘事件 [ ] 現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字 豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月にを再建しており、8月3日に殿のを行うことにした。 ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。 問題とされたのは「 国家安康」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。 「国家安康」を「家康の名を分断してする言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の)源家康という意味である)、これは後世の俗説である。 さらに8月18日、の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣氏は、家老・と鐘銘を作成したを駿府に派遣し弁明を試みた。 ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。 且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。 そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏がを集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏にしたのである。 この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康がらと画策して問題化させたものであると考えられているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている。 その後も鐘は中の金属供出を免れ、鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。 大坂冬の陣 [ ] 慶長19年()11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。 そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。 徳川軍は・・・などの局地戦で勝利を重ねたが、では大敗を喫した。 とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。 午後8時、午前0時、午前4時に一斉にをあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に(・・)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。 この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。 強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、淀殿やを心理的に疲弊させる策略を用いることで「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める」という徳川に有利な条件での和睦にもち込んだ。 和睦の締結後、徳川方は和睦の条件に反して内堀までも埋め立てたため、結果、慶長20年()1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。 従来の説では、豊臣方は二の丸、三の丸の破壊を形式的なもので済ませ、時間稼ぎを狙っていたが、徳川方がを全ての廓と曲解することで強引に工事に参加して、豊臣側が行うとされた二の丸の破却作業も勝手に始め、さらに和議の条件に反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側は抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺したとされる。 大坂夏の陣 [ ] このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。 主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。 そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。 さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。 そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。 これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、、、、らが戦死する。 しかし、において徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、豊臣軍の隊に本陣にまで突入され、隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。 一時はが倒れ、家康自身も自害を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城した。 5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。 ここに豊臣宗家は滅亡した。 その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられたのが廃され、と秀吉の廟所であったは閉鎖・放置されている。 の後に豊国大明神号は復活し、にも信長や秀吉が祀られるようになっている。 最晩年 [ ] 姿の徳川家康公之像(本丸跡) 慶長20年()6月28日、後陽成天皇の第八皇子であるを猶子とする。 元年()7月17日、17条 を制定して、朝幕関係を規定した。 また、諸大名統制のために ・が制定された。 こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。 同年、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津のの湧水にある古城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前に中止し、屋敷の改築に方針転換したが、何れも死去により立ち消えになっている。 2年()1月21日、病のために出た先で倒れた。 3月21日、朝廷からに任ぜられたが、これは武家出身者としては、、源義満()、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。 巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去した。 即夜、久能山に遺体は移された。 『』が伝えるところでは、以下の2首をとして詠んでいる。 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」• 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」 死因については、をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけたによる説が長く一般化されてきた。 しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、の夕食で 、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。 替わって主流となっているのは説である。 『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている。 後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれたであるという説明がなされることもあるが、実際には、のの一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである。 墓所・霊廟・神社 [ ] 『本光国師日記』によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。 御葬禮をば增上寺にて申付。 御位牌をば三川之大樹寺に立。 一周忌も過候て以後。 日光山に小き堂をたて。 勧請し候へ。 」としている。 この遺言に従い、葬儀は5月17日に増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。 この葬儀は神として祀られたため内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用、僧も近国からのみの参集であった。 遺体はの南東の(現)に葬られ、遺言通り、を経ての最北部にあるのに分霊された。 天海指揮による日光への改葬説が、幕府文献などにも「改葬」と記述されていたため広く信じられてきたが、近年になってその矛盾を指摘する議論・研究が盛んとなり、日光へ運ばれた「神柩」 の中に遺体はなかったとする説が有力となっている。 神号は側近のと、の間で、とのいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、に則ってを本地とする権現とされた。 この後、が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し 、また一説によるとも「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した。 日本大権現が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に 東照大権現の神号、3月9日にが贈られる。 また、東照社はとの尽力により2年()11月3日に宮号宣下があり、となり 、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として 東照神君、 権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。 徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。 現在も久能山東照宮の神廟を徳川家康の墓所とし 、他の霊廟としては日光東照宮において墓所を象った神社としての奥宮、のであるのやにある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。 また、の寺院としては、の塔頭であるが徳川家牌所である。 なお、徳川将軍15人中かのどちらにも墓所がないのは家康以外にはとがいる。 同左(2016年11月13日撮影) 年表 [ ] 月日 数え年 内容 11年 12月26日 1歳 誕生() 3年 5月19日 19歳 永禄5年 1月15日 21歳 を訪問しと同盟を結ぶ。 永禄9年 12月29日 25歳 藤原姓徳川氏に改姓。 従五位下にし、に任官 永禄11年 1月11日 27歳 元年 6月28日 29歳 元亀2年 1月5日 30歳 従五位上 1月11日 元亀3年 10月16日 31歳 12月22日 2年 1月5日 33歳 正五位下 天正3年 5月 34歳 天正5年 12月10日 36歳 従四位下 12月29日 天正8年 1月5日 39歳 従四位上 天正10年 6月2日 41歳 、 天正11年 10月5日 42歳 正四位下(遡及) 10月7日 (遡及) 天正12年 2月27日 43歳 従三位(遡及) 3〜4月 天正14年 10月4日 45歳 10月27日 にてに臣従 11月5日 正三位 天正15年 8月8日 46歳 従二位。 羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか? ) 12月28日 ・両官職兼任 天正16年 1月13日までに 47歳 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。 天正18年 8月 49歳 関東移封。 八月朔日、江戸城に入る。 天正20年 9月16日 51歳 豊臣秀吉の執奏によりの家格勅許。 元年 5月8日 55歳 正二位 慶長5年 9月15日 59歳 慶長7年 1月6日 61歳 従一位 慶長8年 2月12日 62歳 、宣下・宣下 10月16日 右大臣辞任 慶長10年 4月16日 64歳 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任 慶長19年 3月8日 73歳 朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退。 同日付で息子・徳川秀忠もにしているが、これは 豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(蔵本))。 同様に、同年12月28日付の「両兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付のの昇叙転任の宣旨についても 豊臣家康の名義であったと考えられる。 現存の所蔵の徳川家康の任官の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、2年()に将軍・徳川家光の要請によりが再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で 豊臣から 源に変更した可能性がある。 同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。 天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。 これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将及び左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。 なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。 さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。 東京国立博物館所蔵文書。 人物・逸話 [ ] 徳川家康像(前) 人物 [ ] 身長 家康着用ののは、身丈139. 5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される。 容貌 家康に謁見したルソン総督は、著作の『』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。 下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、に結ばせていた(『岩淵夜話』)。 後世の書には非常な肥満体で醜男であったとされている(『翁草』1776年)。 武術の達人• 剣術は、新当流の有馬満盛、のの流れをくむ神影流 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。 2年()にを200石(剣術のの推薦)で秀忠の指南として、文禄3年()に新陰流の を召抱える。 の弟子筋のより一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。 ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。 馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とするを学んでいる。 小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。 豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。 弓術についてはにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵をで何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。 鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5. 60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。 また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。 好学の士 家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『』『』『』『』『』『』を好んだ」と記載している。 家康はこれらの書物を関ヶ原以前より()で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。 特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し 、また林羅山に抄出本を作成させており 、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。 また『』の教授を受けたり、からやを学ぶなど、その興味は幅広かった。 古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。 これらは御三家に譲られ、「」と呼ばれ伝わっている。 南蛮から贈られた薄石がと知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった。 多趣味 と作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。 鷹狩は、に滞在しながら で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名 ややの駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。 家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め 気分転換 のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生 養生 と考えていた(『中泉古老諸談』)。 作りは、など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。 「薬喰い」とも言われるを食すなど記録が多い。 駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。 (現在の名称は)は、若いころからの家系に連なるに学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。 このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。 特にを好んだという。 駿府城三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。 のを天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。 家臣のが京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。 自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康はに顕彰されている。 は一世名人・に慶長17年()に扶持を与える。 この功績により、平成24年()の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される。 を好み ( たきもの )の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされたを所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている。 なお有名なについては、慶長7年6月10日、東大寺に奉行のとが派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し 、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。 同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)。 新しいもの好き 、南蛮など新しい物好きだった。 日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、には防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、やには南蛮胴を下賜し伝世している。 晩年の家康は、、唐の時計、などを蒐集しており 、時計が好きだったようだ。 として、けひきばし()、、、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、家康が的資質を持っていたことが窺える。 芸事は好まない• 今川家での人質時代にに舞を所望されたが、にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。 当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。 家康は幼少期よりの世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない。 家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来のの名物・大名物が目白押し だが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。 ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)にとに製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。 なお、親宅は家康へ肩衝茶入『』を献上し、政重は後にの支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。 家康が尊敬していた人物 家康は、中国の人物として、、、、、、、、を尊敬している。 着目すべきはすべて・・時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。 日本の人物ではを尊敬していた(『慶長記』)。 師は武田信玄 に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。 軍令に関しては重臣・の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。 天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。 自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、と名乗らせを治めさせている。 書画 『』 や『』 には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。 しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。 特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。 こうした文書類には、普通が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。 には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。 しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。 家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。 家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。 文芸として家康の書を眺めると、家康はを好み、筆のを臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。 ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。 絵も簡略な筆致のが10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。 しかし、『』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。 健康指向 家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。 これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。 その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。 とを好み、の煮付けやもよく食べていた。 決して過食することのないようにも留意していたといわれる。 は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。 和漢のにも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。 海外の薬学書であるやを読破し、慶長12年()から、本格的な本草研究に踏みだした。 調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。 腎臓や膵臓によいとされているを特に好んで処方して日常服用していたという。 から精力剤になる ( オットセイ )を慶長15年()と慶長17年()の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)。 欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来にを使用させ、感染症を予防させたりもしている。 東照大権現のがとなった所以は家康のこの健康指向に由来している。 致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていたが、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。 本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。 家康の侍医の一人、呂一官が創業したは今も現存する。 寡黙な苦労人 幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。 家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。 また、後には重臣・にも裏切られている。 働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。 結束も縁故関係による所が大きい。 こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。 吝嗇 家康の吝嗇(けち・りんしょく)にまつわる逸話は多い。 はのものを使用した。 しかしこれは薄黄色だと汚れが目立たないため洗濯の回数が減るという理由からである。 家来にもこれを強いたが、武骨な三河武士は下帯は白を好み、この下知にだけは従わなかったとされる。 手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたところ、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した。 それを見て思わず笑ってしまったに対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している(『葉隠覚書』)。 新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。 また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。 侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。 駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、3年で運上金千両分の銅を回収した(『渡辺幸庵対話』)。 商人より献上された装飾を施した(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。 ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。 厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。 家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。 は秀吉の後に天下を取れる人物としてをあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。 この結果、家康は莫大な財を次代に残している。 『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなくと評している。 普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。 例えば『信長公記』に記されたの接待においては京からを招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。 大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。 家康公遺訓 家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。 不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。 堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。 おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。 時代に元500石取りの幕臣・がの遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆文書に似せて偽造したものである。 これをらがなど各地の東照宮に収めた。 また、これとよく似た『』(『』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。 これはが、井上主計頭()がの初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。 江戸時代は禁書であった。 一説にはとされている。 家康と刀剣 [ ] 家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。 また、晩年の慶長19年(1614年)春には、に備えるために、という刀工に1000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。 一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった(現在の)の刀工、千子(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である。 家康自身も村正のとを所有し、これらはに「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。 脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在もに所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。 家康がこのを一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている。 この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で 、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」 や短刀「夢告(むこく)」 などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている。 お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田(元のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。 村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。 なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている。 村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実()で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けたが、そうした伝説は家康の死後に発生したものである。 徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。 妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。 『』で、家康が村正を忌避し、が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。 これは年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは15年(1610年)にが自ら著した神君家康の真実と信じられていた。 家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。 主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった。 仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく 、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。 家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。 その他 [ ] 居城 家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と極めて短い。 幼少から持っていた洞察力 「教導立志基」より『徳川竹千代』、筆 10歳のころ、竹千代(家康)は駿河のの河原で子供達の石合戦を見物した。 150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。 だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。 家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。 肖像画 平成24年()、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍のの(下絵)が公開された。 家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。 信長の兄弟 『』では、「信長の姉妹を娶り」とあり 、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。 しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。 神君伊賀越え 直後のでは・の力添えを受けてまで逃走した。 その道中、甲賀忍者のの居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかったが、城主・がを与えたところ、信用して城で一泊した。 その後は伊賀の・、、、の等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏はで8,000石を領するに、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。 他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後にへ移った。 また、このときの礼としてには仏像を与え、これは現在も一族のが所有している。 影武者説 の際に家康はに討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるためにが病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。 一説に異母弟のもしくはではないかといわれる。 大阪府堺市のには家康の墓とされるものがある。 も参照。 「徳川氏」について 戦国時代から江戸時代の大名のの家中には、と遠祖を同じくするとしたの子孫を称する新田氏流の末裔という常陸徳川氏がいて、ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場でを堂々と名乗っていた。 源氏への復姓時期について [ ] 家康は4~6年頃の文書ではとして「源氏」を使用しており、永禄9年()に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。 かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから 、の勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった。 しかしがの文書を調査したところ、天正20年9月の勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど 、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。 は、天正16月4月のの行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている 、 他に14年()、の(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。 ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており 、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。 また、天正14年には藤原氏を用いた寺社へのも残っている。 天正19年()、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。 は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言えるに古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している。 江戸幕府の支配に関して [ ] 徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年()付 家康が礎を築いたを頂点とするの支配体系は完成度の高いものである。 これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が(取り潰し)の憂き目にあっており 、これには譜代、親藩大名も含まれる。 これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、などはその象徴的事件であった。 幕府に従順な大名に対してもなどで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。 些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。 大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。 全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。 逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。 このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。 後の政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。 またが海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。 家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。 慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名へのの授与を禁止し、を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。 の最中である12月17日、朝廷は家康にによる和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。 さらに家康は秀忠の五女・を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。 和子の入内が元和6年()まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。 家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。 この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。 一族・譜代の取り扱いに関して [ ] 息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。 長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。 また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。 関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。 かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。 秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。 将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。 また秀康の子・には、秀忠の娘・を嫁がせている。 忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には並の所領(・高田55万石)が与えられていた。 しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。 松平忠直は大坂の陣で(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。 家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、を継いだのは忠直の弟・であった。 忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。 であるやを関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐを改易・失脚させている。 しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだが大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・と孫・に自分の孫・熊姫(の娘)とを嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。 も忠隣の孫・は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。 ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。 しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。 家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・をという極刑で処刑している。 大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、を促したとする見方もできる。 更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。 また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。 また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。 『』には家康がに語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。 勇功を顕したり」と記されている。 家康と同時代の人々 [ ] 家康は、武田信玄を尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった。 家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。 そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、の不備もあってとなった。 とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。 一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。 その戦振りに関しては、秀吉から「」と賞賛されたと伝わる。 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、では開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番の野々村四郎右衛門が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、というに侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。 家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈のの竿を一刀のもとに切り捨てたという。 さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。 その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。 幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方のを後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。 情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。 例えばで家康の身代わりとなって討死したの子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に、らの決死の嘆願でを助命している。 特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いでが背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「 犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、を起こされたことも考慮する必要がある。 無論、有能な人材も重視し、だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人(外国人に武士としてを与えた のは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。 家康と宗教 [ ] 戦国時代最大の武装宗教勢力であったは第11世門主・の死後、顕如の長男・と三男・が対立し、教如が独立する形で()を設立、後にこれに対して准如が()を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。 一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。 しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。 現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。 徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。 東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だったとが、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。 ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。 だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。 彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。 また、同様にに対し強い影響力を有するに対しても、秀吉が命じた大仏殿の千僧供養時に他宗のを受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従ったの内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。 そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派のをに配流したり、他宗への攻撃が激しいらを耳・鼻削ぎの上で追放した。 家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。 これら新興の宗派以外の古い・・にも独占したを通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たにのを門跡に加え、更に天台宗の関東における最高権威としてに門跡を設けた。 これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。 一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。 しかしやを経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。 家康の死後、幕府は等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。 また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。 近現代における評価 [ ] 江戸期を通じて神格化され 、否定的評価は禁じられており、後に家康の自由な評価が解禁された。 の小説『』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。 この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。 は家康について記した小説『』あとがきで、家康が築いたについては「功罪半ばする」とし、「(の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。 但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。 初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。 にが実施した識者5人(、、、、)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、家康が得票数で1位を獲得した。 一族縁者 [ ] 家康は2代将軍・の父、3代将軍・・らの祖父、4代将軍・、(6代将軍・の父)、5代将軍・、8代将軍・の曽祖父に当たる。 父:、母: 兄弟姉妹• 異母弟妹:、、、、• 異父弟:、、 正室• 正室・(清池院) - (一門の(の末裔))娘• 継室・(南明院) - 娘、(妹) 側室• (蓮葉院) - 娘(旧臣。 妻姉妹)• (妙真院) - 娘(旧臣。 のち養女)• 蔭山殿(、お万) - 娘(旧臣、。 のち北条氏家臣の養女。 小督局(、於万の方) - 娘(、)• (竜泉院) - 娘()• お竹() - 娘(甲斐武田氏旧臣)• (朝覚院) - 遠江国出身。 百姓の娘とされる(前夫との娘は妻)• お夏() - 娘(旧臣。 お梶() - 娘(実父は・など諸説あり。 お梅() - 娘(豊臣氏家臣)• 阿茶局(須和)() - 娘(今川氏旧臣)• お牟須() - 娘(甲斐武田氏旧臣。 姉妹に母)• (相応院) - 娘(「清水」とも。 お仙() - 娘(武田家臣。 お仙兄弟に)• お六() - 娘(の一つのの一族か。 お久() - 娘(旧臣)• 富子() - 娘• 娘 子女 男子• (葉縦院) - 娘、妻・正室• (大凉院) - 娘、継室• (光照院) - 娘、正室• (長寿院) - 娘、室• (栄寿院) - 娘、妻・継室• (円照院) - 本多忠政娘、・室• (敬台院) - 娘、室• - 松平康元娘、妻・継室• - 松平康元娘、妻・継室• - 松平康元娘、正室• - 娘、正室• - 娘、継室• - 娘、継室• - 娘、室• - 娘、室• - 娘、継室• 名前不詳 - 松平家清の娘、室• 名前不詳 - 松平康元娘、松平忠政(大須賀忠政)妻・正室• 名前不詳 - 松平康元娘、岡部長盛継室• 名前不詳 - 娘、正室• (大蓮院) - 娘、正室=主が江戸幕府に提出した諸系図には台徳院殿()娘となっている。 (公家・の)• (長男)• (二男)• (異母弟? (異父弟)• (異父弟、康元の弟)• (従弟・義弟)• (矢田松平家、の嫡男)• (松井忠次より改名)• (康親の子)• (戸田康長)• (家康の玄孫にあたる)• (家成の子)• (康直の子)• (側近、のちの資宗)• (養子・奥平家昌の実弟)• (初名:忠恒)• (初名:義親)• (家親の子・義俊の初名)• (本多忠政の別名)• (別名: 家豊)? (の長男)• (依田信蕃の二男、のち加藤 康寛と名乗る) 関連史料 [ ] 同時代の人物による記録• () - 織田信長についての記事が主だが、同盟者の家康についての情報も多い。 (板坂ト斎)• (とも、?? () - 元和8年成立、覚書。 () - 公家の日記だが、公私にわたって家康と交流があり、その様子が記されている。 編纂物(資料的価値が高いとされるもの)• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• この説では、松平広忠が叔父・、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝及び牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする。 なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については村岡幹生の「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年)をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる平野明夫(「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)や糟谷幸裕(大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 同書天文15年-永禄3年節)らとの議論がある。 家臣のの謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はないとする意見もある(村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」)。 前年の天文18年()、をに攻められ生け捕りにされていた。 『東照宮御実紀』では少将宮町、『』では宮カ崎とされている。 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。 しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある。 また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった。 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた(松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている。 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子()が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。 後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。 なお、この駿府人質時代にも駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。 また、住居が隣同士だったという説もある。 更に浅倉直美は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)。 後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。 氏規の系統は、として小藩ながらも廃藩置県まで存続。 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた。 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曾祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる。 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河忿劇において反今川派に属していた。 永禄10年(1567年)に今川氏真がとに所領を宛行した判物 の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である。 嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。 これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、-期の、-期の、-期のがこれに該当する。 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。 元亀元年(1570年)9月に討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書 の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている。 なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも一定程度独立した立場であったと考えられている。 これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている。 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉する事を警戒していた。 同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、• 朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。 長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。 万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。 を婚姻の条件にしたとされる。 1 と 3 は実際起こらなかったものの、 2 については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。 秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、 2 の条件に基づく判断であったと考えられ、 1 と 3 の条件も実在した可能性が高い。 もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。 軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。 このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった。 この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである。 )」と書いている。 ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。 またこの訳文は・によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある。 ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。 8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている。 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。 ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。 なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった。 『』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。 また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという。 ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある。 なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。 詳しくはの項を参照のこと。 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。 家康の源氏復姓の時期については諸説がある()。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去にはやの例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのはに作られた俗説である。 当時のオランダは公式には共和制であった()。 オランダが正式に王制となるのは19世紀初めの後である。 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非をに諮問しているともいわれるが 、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある。 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという。 ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である。 ただし当時の記録には和議の条件は大坂城の「惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊」であることが記されており、二の丸・内堀の破壊を行わないという記述は後世の書でのみ確認できる。 また惣構を徳川方が、二の丸・三の丸を豊臣方が破壊する予定だったが、後者の作業も徳川方が行ったことは当時の記録にも記されている。 しかし、これに対して豊臣方が抗議を行ったこと、時間稼ぎが目的だったこと、家康が騙すことを目的としたこと等も、後世の書でしか確認はできない。 で評判になっている目新しい料理として清次が紹介し、(現・)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・3枚を平らげたと伝えられる。 なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はに近い。 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。 それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた。 『』では、久能での埋葬の段では「神柩」とし、日光への「改葬」の段では「霊柩」として、柩の呼称を区別している。 野村玄によれば、当時国内では、国外では交替と鎖国令に伴うの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、のときの改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする。 徳川慶喜の墓地がある「」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。 日付は長暦。 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。 以下同じ。 『奥平家譜』、直心影流伝書による。 なお『急賀斎由緒書』では奥山流。 と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在。 前者は個人蔵()。 後者は蔵()• 2013年の時点では無疵の健全作と思われていたが 、その後の調査で疵をならして修復した形跡が発見されている。 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。 とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。 信長の姪達であるから秀吉は自身の側室に長女のを、家康は後継者である秀忠の正室に三女のを迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている。 『』に落胤説があったとの記述がある。 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年()ころの史料なので信憑性には疑問がある。 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。 出典 [ ]• , pp. 小学館. 2015年10月15日閲覧。 2015年10月15日閲覧。 , p. 『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』〈祥伝社新書〉、2017年、126-127頁。 40-41. 糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) P145. 41-42. 「今川義元一代記」『』2002年8月号• 柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) P278・298-300. 『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)• 浅倉直美「北条氏との婚姻と同盟」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) P226-228. 柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) P286. , p. , p. 宮本義己「松平元康の器量と存在感」『大日光』71号、2001年。 『愛知県史』資料編11・566号• 後に改題して「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年に収む。 82-89. , p. 83-86. 『新訂 徳川家康文書の研究』上巻、吉川弘文館 2017年「第二篇 岡崎在城の時代」• 菊地浩之『徳川家臣団の謎』角川書店、2016年 pp. 100-101• 167-176• 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』 1994年pp. 167-176、引用元は『岡崎市史』• 「徳川氏」『』16巻 1987年、p. 875• 木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年、pp114-116、。 「武田神社文書」九月十四日付足利義昭御内書• 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』• , pp. 229-233、引用先は平野昭夫『徳川権力の形成と発展』第2章「織豊大名徳川氏」• 久保田昌希「中世後期東日本への唐船来航」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。 P414-416. 『家康、封印された過去』PHP研究所、1998年。 『松平家忠日記』〈角川選書〉、1999年、26-28頁。 谷口克広『信長と消えた家臣たち』〈中公新書〉、2017年、200-211頁。 『日本外史』• 『家忠日記』天正11年7月20日条• 柴裕之「徳川氏の領国支配と徳政令」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年(原論文は2011年)• , 「豊臣政権の統一過程における家康の位置付け」• 302• フロイス『』第63章• 「」 - 『』第20号 、• 188• 191• 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年 1598年 など。 wikipedia「石高」記事も参照。 194-195. 193. 平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」、佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』、岩田書院、2007年• 高沢裕一「前田利長」『国史大辞典』吉川弘文館。 大西泰正「織豊期前田氏権力の形成と展開」(大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 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