ドッペルゲンガー。 ドッペルゲンガーって本当にいる?実際に見た人の体験談や正体の真相!もう一人の自分の都市伝説に迫る

【怖い話】ドッペルゲンガー

ドッペルゲンガー

ウィキペディアにおけるドッペルゲンガーについては、をご覧ください。 自分とそっくりの姿をした分身。 第2の、の類。 同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある(が目撃するのも含む)。 超常現象事典などではのひとつとして扱われる。 英語風に「 ダブル」と言うこともあり、漢字では「 復体」と書くこともある。 ドッペルゲンガー現象は、古くから・・などで語られ、からが分離・実体化したものとされた。 この二重身の出現は、その人物の「の前兆」と信じられた。 末からにかけて流行した作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年10月) ドッペルゲンガーの特徴として、• ドッペルゲンガーの人物は周囲の人間とをしない。 本人に関係のある場所に出現する。 ドアの開け閉めが出来る• 忽然と消える• ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ 等があげられる。 同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではと重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い。 つまりドッペルゲンガーのほうは本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる。 歴史と事例 [ ] 第16代大統領、の、日本のなどの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている。 ののはドッペルゲンガーの実例として有名で 、同時に40人以上もの人々によってドッペルゲンガーが目撃されたといわれる。 同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者は、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという。 自己像幻視 [ ] 医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は「autoscopy 」、日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える。 現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似するであり、独自のや意図は持たない。 しかし、まれな例としてホートスコピー heautoscopy と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。 ホートスコピーとの交流は友好的なものより敵対的なことのほうが多い。 例えば・のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳のとの境界領域()にができたが自己像幻視を見るケースが多いという。 この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上のを失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。 また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数がと関係している可能性があり 、患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある。 しかし、上述のやで説明のつくものとつかないものがある。 「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである。 作品中のドッペルゲンガー [ ] 文学 [ ] の中のドッペルゲンガーで、に描かれたのは、の『帰郷』93篇の中の1篇に、かつて体験した男性があるの夜、恋に苦悩している自分の分身(影法師)を見てしまうという内容のものがあり、戦慄的な激しい心情が重々しく叙唱されている。 夜はひっそりとして、小路はしんとしている。 この家にはぼくの恋人が住んでいたのだ。 その娘はとっくにこの町を立ち去ったが、家はまだ同じ場所にある。 そこには、またひとりの男がたって、高いところを見つめ はげしい苦痛に手をにぎりしめている。 その影法師よ、蒼ざめた男よ! なぜお前はぼくの恋の悩みを真似るのか。 むかしと同じこの場所で、幾夜もぼくが苦しんだあの恋の悩みを。 How They Met Themselves、水彩、1860-64年 ドッペルゲンガーはおもに作品()に多く見られ、および、それ以後の好みのテーマとして取り上げられた。 は、自分の「鏡像」を失った男を『大晦日の夜の冒険』(1815年)で描いている。 定型の二重身(自分とそっくりの姿をした分身を見る)の恐怖を描いたものとして、()の短編『深夜特急』がある。 ()は『プラーグの大学生』(1913年)にて自我分裂のとしてのドッペルゲンガーを描いた。 の『二重人格』〈『』とも邦訳される〉(1846年)や()の『地上の旅人』(1927年)、さらにの『鉛の夜』(1956年)においては分身として描かれる。 の画家であるは、自己像幻視として神秘体験的な短編『手と魂』(1850年)を描いた。 は、()作の、自身ではなく他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語『グラディーヴァ』(1903年)を取り上げて分析し、「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」を記して、自身の夢解釈理論を展開している。 はドッペルゲンガーを主題にした怪奇譚『』(1839年)を書き、も幻想文学的な『』(1890年)を描いた。 の短編『』(1917年)もドッペルゲンガーを扱っている。 大学教師の佐々木信一郎を名乗る男が、自身と妻のドッペルゲンガーを三度も目撃してしまい、その苦悩を語る警察署長宛ての二通の手紙が紹介される、という形式の短編である。 なお芥川龍之介自身がドッペルゲンガーを経験していたらしいと指摘されることがある。 芥川はある座談会の場で、ドッペルゲンガーの経験があるかと問われると、「あります。 私は二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答え、錯覚か人違いではないか?との問いに対しては、「そういって了えば一番解決がつき易いですがね、なかなかそう言い切れない事があるのです」と述べたという。 も、心境小説『泥濘』(1925年)の終章において、夜の雪道で偶然に体感した不思議なドッペルゲンガー現象を綴っている。 梶井はこの実体験を主題にして発展させ幻想的な『』(1926年)を描いた。 サブカルチャー [ ] ドッペルゲンガーは、や小説などにもよく登場する。 そこでは、不埒な目的のために、特定の人や生き物になりすますとして描かれている。 前述のように、日本におけるドッペルゲンガーの認知は、前近代の頃より「離魂病」の一つと見られてきたが、現代創作物においても、そうした認知が脈々と継承されており、特撮ドラマで言えば、『』第25話に登場する悪魔ッ子リリーの話は、肉体を離れ、精神体が悪事をするという内容となっている。 漫画で言えば、『』の郷子の話が例として挙げられる。 これらは、解釈に差異はあれど、肉体と魂が分離した結果、その者の命が危機にさらされ、最後に一体化してハッピーエンドとなる流れで、これらの話は、中国の『唐代伝奇集』の中の、遠くに離れた2人の娘の話で、紆余曲折の末、寝たきりとなった娘(こちらが肉体とされる)が、遠くで暮らすもう1人の自分の話を聞き、起き出して、最後に一体化してハッピーエンドとなるという、離魂した娘の話の類型である。 上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話はの漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 51)• 319-320)• 198-199)• 「目次」「はじめに」「第一部」(, pp. 1-134)• 305-324. 2004年9月15日. 2009年8月26日閲覧。 200-214)• 著・訳『シューベルトの歌曲』(、1953年6月)。 , pp. 205-206• 128-138)• 487-488)• , p. 「泥濘」( 1925年7月・通巻5号)。 , pp. 59-70、, pp. 61-76に所収 参考文献 [ ]• 『』(改版) 新潮文庫、2003年10月。 初版は1967年12月。 梶井基次郎 『梶井基次郎全集 全1巻』 、1986年8月。 『コンプレックス』 、1971年12月。 河合隼雄 『影の現象学』 、1987年。 世界博学倶楽部 『都市伝説王』 、2007年。 『超常現象大事典』(永久保存版) 、2001年3月。 リン・ピクネット 『超常現象の事典』 、1994年4月。 『見てしまう人々:幻覚の脳科学』訳、早川書房、2014年。 関連項目 [ ]•

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ドッペルゲンガー(もう一人の自分)が登場する夢の意味

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それはただのそっくりさんでしょw ドッペルゲンガーの事例集 ドッペルゲンガーを見た!という過去の事例集を面白いものから怖いものまで紹介していきたいと思います! サンドウィッチマン伊達みきお目撃現象 まず最近話題となっているお笑いコンビ サンドウィッチマンの 伊達みきおさんが 宮城県で多数目撃されていたという現象。 3年ほど前から宮城県内で「伊達みきおを見た!」という情報が多発しており、その正体がやっとわかったようです。 これだけそっくりだとドッペルゲンガーだと思っても無理はありませんね笑 リンカーン大統領 未来の自分を目撃? アメリカの第16代大統領 エイブラハム・リンカーンが自身のドッペルゲンガーを見たという話は有名ですね。 生前リンカーン大統領は 鏡越しに自分の死んだ姿を見ていたと言われています。 また、自分が暗殺される不吉な夢もたびたび見ていたのだとか。 暗殺された当日も「私の暗殺の噂を聞いていないか?」と確認していたと言われています。 もしかしたらリンカーン大統領は自分の未来の姿をドッペルゲンガーとして見ていたのかもしれませんね。 芥川龍之介 破り捨てられたはずの原稿が… 日本の文豪芥川龍之介さんもドッペルゲンガーを見ていたと言われています。 そんな体験を元に書かれた「人を殺したかしら」という未完の小説。 自殺の前日、編集者はその原稿を見つけ読もうとしたところ、芥川さんは「それに触るな!」と激怒、原稿に書かれた自分の名前を塗りつぶし、その場で破り捨ててしまいました。 翌日、編集者が芥川宅を訪ねてみたものは、自殺した芥川さんの遺体と、しわ1つない前日破り捨てられたはずの原稿でした。 編集者は前日芥川さんのドッペルゲンガーを見たのでしょうか? なんか怖くなってきましたね笑 でも実際ドッペルゲンガーは不吉な現象とされていて、自分のドッペルゲンガーを見た人は死ぬと言われています。 皆さん自分のドッペルゲンガーを見ないよう気をつけましょう笑.

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ドッペルゲンガーを見たら死ぬって本当?ドッペルゲンガーの原因とは?

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オカルト系ネット仲間の京介さんの部屋に、借りていた魔除けのタリスマンを返しに行ったことがあった。 京介さんは女性で、俺より少し年上のフリーターだった。 黒魔術などが好きな人だったが少しも陰鬱なところがなく、無愛想な面もあったがその清潔感のある性格は、一緒にいて気持ちが良かった。 その日は、買ったばかりの愛車をガードレールに引っ掛けたという間抜けぶりを冷やかしたりしていたのだが、これから風呂に入ってバイトに行くからという理由であっさりと追い払われた。 このところオフ会でも会わないし、なんだか寂しかったが仕方がない。 目の前でドアを閉められる時、何度かお邪魔したこともある部屋の中にわずかな違和感を感じたのは、気のせいではなかったと思う。 なにか忘れているような。 そんなぼんやりとした不安があった。 それから1週間はなにごともなかった。 自堕落な生活で、すっかり曜日の感覚がなくなっていた俺が、めずらしく朝イチから大学の授業に出ようと思い、家を出た日のこと。 講義棟の前に鈴なりのはずの自転車が、数えるほどしかなかったあたりから予感はされていたことだが、掲示板の前で角南さんという友達に会い「今日は祝日だぞ」とバカにされた。 だったらそっちもなんで来てるんだよ、と突っ込むと笑っていたが、急に耳に顔を寄せて「昨日歩いてたのだれ?やるじゃん」と囁いてきた。 なんのことかわからなかったので、「どこで?」と言ってみると「うわーこいつ」と肘うちを喰らい、意味のわからないまま彼女は去っていった。 俺は首を捻りながら講義棟を出た。 角南さんはそのあたりの店でバイトしているはずなので、そこで見られたようだ。 しかし昨日俺は一人だった。 だれかと歩いていたはずなんてない。 たまたま同じ方向に進んでいた人を、連れだと思われたのか。 なぜか急に背筋が寒くなってきて振り返ったが、閑散としたキャンパスが広がっているだけだった。 俺は自転車をとばして、逃げるようにアパートへ引き返した。 そのあいだ後ろからだれかがついて来ているような気がして、ときどき振り向きながらペダルをこいだ。 なぜかだれともすれ違わなかった。 俺のアパートは学校から近いとはいえ、その途中に通行人の一人もいないなんて、なんだか薄気味が悪い。 駐輪場に自転車を止め、階段を登り、アパートの部屋のドアを開ける。 学生向けのたいして広くもない部屋は、玄関からリビングの奥まで見通せるつくりになっていた。 はずだった。 キッチンに俺がいた。 俺は無表情で、こちらに目も向けずトイレのドアを開けるとスッと中に消えた。 パタンとドアが閉まる。 現実感がない。 玄関で俺は靴も脱がず立ち尽くしていた。 そして今見たものを反芻する。 鏡ではもちろんない。 生きて動いている俺が、トイレのドアを開けて中に入った。 という、それだけのことだ。 それを俺自身が見ているという異常な事態でさえなければ。 この怖さをわかってもらえるだろうか。 思わず時計を見た。 まだ朝のうちだ。 部屋の窓のカーテン越しに射す太陽の光が眩しいくらいだ。 だからこそ、この逃げようのない圧迫感があるのだろう。 夜の怖さは、明かりをつけることで。 あるいは夜が明けることで克服されるかも知れない。 しかし朝の部屋が怖ければ、どこに救いがあるというのか。 部屋にはなんの音もない。 トイレからもなんの気配も感じられない。 おそらく俺は10分くらい同じ格好で動けなかった。 そして今のはなんだろう今のはなんだろうと、呪文のように頭の中で繰り返し続けた。 見なかったことにして、とりあえずコンビニでも行こうかと、どれほど思ったか。 でも逃げないほうがいい。 なぜかそう決めた。 たぶん、幻覚だからだ。 というか、幻覚じゃないと困る。 俺はオラァと大きな声を出すと、ズカズカと部屋の中へ進み躊躇なくトイレのドアを開け放った。 開ける瞬間にもオラァとわけのわからない掛け声をあげた。 中にはだれもいなかった。 ほっとした、というよりオッシャア、と思った。 念のためにトイレの中に入ろうとしたとき、視線の端で何かが動いた気がした。 閉めたはずの玄関のドアが開いていて、その隙間から俺の顔が覗いていた。 再び自転車を駆って、休日の道を急ぐ。 今日は朝イチで大学の講義に出て、清清しい気持ちになっているはずだったのに、なんでこんな目にあっているのだろう。 中から鍵を掛けて、ノブをしっかり握っていた。 俺が玄関から入ってきたら、どうしよう。 オラァ とかいう声が外から聞こえたら、失神していたかも知れない。 どれほど中にいたのかわからないが、とにかく俺はついにトイレからビクビクと出てきて、電話をした。 こういう時にはやたら頼りになるオカルト道の師匠にだ。 しかし出ない。 携帯にもつながらない。 焦った俺は次に京介さんへ電話をした。 「はい」 という声が聞こえたときは、心底嬉しかった。 そしてつい1週間まえにも通った道を、数倍の速度で飛ばした。 京介さんは、住んでいるマンションのそばにある喫茶店にいるということだった。 店のガラス越し、窓際の席にその姿を見つけたときには、俺は生まれたばかりの小動物のような気持ちになっていた。 ガランガランという喫茶店のドアの音に振り向いた京介さんが、「ヨオ」と手をあげる席に走って行き、俺は今日あったことをとにかく捲くし立てた。 「ドッペルゲンガーだな」 あっさりと京介さんは言った。 「自分とそっくりな人間を見る現象だ。 まあほとんどは勘違いのレベルだろうが、本物に会うと死期が近いとか言われるな」 ドッペルゲンガー。 もちろん聞いたことがある。 そうか。 そう言われれば、ドッペルゲンガーじゃん。 不思議なもので、正体不明のモノでも名前を知っただけで奇妙な安心感が生まれる。 むしろ、そのために人間は怪異に名前をつけるのではないだろうか。 白昼夢でも見たんじゃないのか」 そうであってほしい。 あんなものにうろちょろされたら、心臓に悪すぎる。 「しかし気になるのは、その女友達が見たというおまえだ。 おまえとドッペルゲンガーの二人を見たような感じでもない。 話しぶりからするとおまえと一緒に歩いていたのは女だな。 本当に心あたりがないのか」 頷く。 「じゃあ、ドッペルガンガーがだれか女と歩いていたのか。 おまえの知らないところで」 「こんど聞いておきます。 角南さんがどこで俺を見たのか」 俺は注文したオレンジジュースを飲みながらそう言った。 そう言いながら、京介さんの様子がいつもと違うのを訝しく思っていた。 あの、飄々とした感じがない。 逼迫感とでもいうのか、声がうわずるような気配さえある。 ドッペルゲンガーだな、と言ったその言葉からしてそうだった。 「どうしたんですか」 とうとう口にした。 京介さんは「うん?」と言って目を少し伏せた。 そして溜息をついて、「らしくないな」と話し始めた。 はじめは、ふとした拍子に視線の端に映る人間の顔を見てオバケだと思ったという。 視界のいちばん隅。 そこを意識して見ようとしても見えない。 なにかいる、と思ったのはあるいはもっと昔からだったかも知れない。 でも視線の端の白っぽいそれが人の顔だとわかり、オバケだと思ったすぐあと、「あ、自分の顔だ」と気づいてしまった。 それは無表情だった。 立体感もなかった。 そこにいるような存在感もなかった。 顔をそちらに向けると、自然とそれも視線に合わせて移動した。 まるで逃げるように。 いつもいるわけではなかった。 けれど疲れたときや、なにか不安を抱えているときにはよく見えた。 怖くはなかった。 中学生のとき、ドッペルゲンガーという名前を知った。 その本には、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬと書いてあった。 そんなのは嘘っぱちだと思った。 そのころには、それは顔だけではなかった。 トルソーのように上半身まで見えた。 ただその日着ている自分の服と同じではなかったように思う。 どうしてそんなものが見えるのか、不思議に思ったけれどだれかに話そうとは思わなかった。 自分と、自分だけの秘密。 高校生のとき、自己像幻視という病気を知った。 精神の病気らしい。 嘘っぱちだとは思わなかった。 ドッペルゲンガーにしても、自己像幻視にしても、結局自分にしか見えないなら同じことだ。 そういう病気だとしても、同じことなのだった。 視線の隅にひっそりと立つ自分。 表情はなく、固まっているように動かない。 そして、それがいる場所をだれか他の人が通ると、まるでホログラムのように透過してしまい揺らぎもなくまたそのままそこに立っているのだった。 全身が見えるようになると、それからは特に変化はないようだった。 相変わらず疲れたときや、精神的にピンチのときにはよく見えた。 だからといって、どうとも思わない。 ただそういうものなのだと思うだけだった。 それが、である。 最近になって変化があらわれた。 ある日を境に、それの「そこにいる感じ」が強くなった。 ともすればモノクロにも見えたそれが、急に鮮やかな色を持つようになった。 そしてその立体感も増した。 だれかがそこを通ると「あ。 ぶつかる」と一瞬思ってしまうほどだった。 ただやはり他の人には触れないし、見えないのであった。 ところが、ある日部屋でジーンズを履こうとしたとき、それが動いた。 ジーンズを履こうとする仕草ではなく、意味不明の動きではあったが確かにそれの手が動いていた。 それから、それはしばしば動作を見せるようになった。 けっして自分自身と同じ動きをするわけではないが、なにかこう、もう一人の自分として完全なものなろうとしているような、そんな意思のようなものを感じて気味が悪くなった。 相変わらず無表情で、自分にしか認識できなくて、自分ではあるけれど少し若いようにも見えるそれが、はじめて怖くなったという。

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