国境 の 長い トンネル を 抜ける と 雪国 で あっ た。 川端康成『雪国』の冒頭は「こっきょう」か、「くにざかい」か

雪国のあらすじ「長いトンネルを抜けると」

国境 の 長い トンネル を 抜ける と 雪国 で あっ た

22 国境の長いトンネル 川端康成の小説「雪国」の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の「国境」を「コッキョウ」と読むか、「くにざかい」とよむかについては議論があるやに聞いています。 では、この読み方が「今も「日本近代文学会」ではアツイ話題」になっていると記していますが、ほんとかしら。 かのベストセラー、齋藤孝『声に出して読みたい日本語』 (草思社)では、この小説を引用して「くにざかい」とルビが振ってあるとのことです (追記2参照)。 編者によってそのよみに決められてしまったのでしょう。 10年ほど前まで、NHKテレビで「連想ゲーム」という番組がありました。 その中で、「国境の長いトンネルを……」という文句が出題されたことがあります。 女性陣が見事に正解し、声をそろえてこの一節を唱えました。 ところが、これを見た放送作家だか放送評論家だかが憤激して、 「最近はことばを知らない人が多いので困る。 解答者の女たちは黄色い声を張り上げて『コッキョウの長いトンネルを……』と言っていた。 あれは『くにざかい』と読むのだぞ」 というようなことを、週刊誌か何かに書いていました。 早稲田大学の某先生(国語学)は、学生がこの部分を「コッキョウの……」と読んだとき、「ん?」と疑問の声を発せられました。 「くにざかいと読むべきでしょう」というお気持ちだったと推察します。 一般に、「雪国」の冒頭を「コッキョウ」と読むのは無学で、「くにざかい」とよんでこそ日本語の達人だというふうに受けとめられているのではないでしょうか。 なるほど、「国境の長いトンネル」、すなわち清水トンネルは、上野国・越後国の境にあるのであって、主権国家と主権国家との間のトンネルではありません。 「コッキョウ」は変だというのはひとつの理屈です。 しかし、廃藩置県を経た近代日本では「くにざかい」も消滅しているはずで、「くにざかいの長いトンネル」も、「コッキョウの長いトンネル」と同じぐらい変であるともいえます。 川端康成は、「夜の底が白くなった」というような新感覚の表現をあえて使う作家です。 この「国境」もふつうの使い方でないと見たほうがよいでしょう。 「雪国」と「雪なし国」とをつなぐトンネルという意味であれば、「コッキョウ」のほうがむしろふさわしいかもしれません。 なぜいきなり「雪国」の冒頭を思い出したかといいますと、山口幸洋『しずおか方言風土記』(静岡新聞社)を読んでいたら、「駿遠国境山地」ということばに行き当たったからです。 〔静岡県における一型アクセントの地域は〕このように一見複雑だが、地図上では南アルプスの一角、大無間山を取り囲む焼き畑中心だった村々で、地域の名称として「 駿遠国境山地」の方が本来適当だろう。 27-28) 静岡県の、旧駿河と旧遠江との境目あたりの山地をこう言っているんですね。 「スンエンくにざかいサンチ」ではなく、どうしても「スンエンコッキョウサンチ」と読むべきところでしょう。 そうであるならば、くにざかいの意味で「コッキョウ」と読むことはあるという実例になります。 『日本国語大辞典』を見ると、森鴎外「渋江抽斎」から「若し丹後、南部等の生のものが紛れ入ってゐるなら、厳重に取り糺(ただ)して国境( コクキャウ)の外に逐へと云ふのである」という例が引いてあります。 この「国境」は、つまり「くにざかい」のことですが、「コクキャウ」とルビが振られています。 これらを見てくると、「雪国」冒頭の「国境」は、「上野国・越後国の境」と解釈した場合でも、なお「コッキョウ」と読んで支障がないと考えられます。 それにしても、作品中のある一節をどうよむほうがよいかということが議論される作品は、古典ではよくありますが、近代小説ではきわめてめずらしいといえるでしょう。 まして、その読み方で教養が測られる小説の一節というのは、なかなかありません。 川端康成自身に尋ねてみれば、案外、「さあ、どう読むべきだろう?」とか、「特に決めていなかった」とか言いそうな気もします。 06)に収録しました。 拙著では、まさしく川端自身が「上越国境とか信越国境とかいいますけどね。 国境(こっきょう)と読んでいるでしょうね、みんな」と発言している対談も紹介しました。 どうぞお読み下さい。 小駒勝美氏に教わったところによれば、そのものずばり「 上越国境」という言い方があるそうです。 小駒氏によれば、このほか「信越国境」「上信国境」「上信越国境」などの言い方が各地にあるとのことです。 ウェブの「Google」で検索された結果、なかでも「上越国境」が1670件で最も多かった由。 「雪国」の冒頭の読みを決めるうえで、何かのヒントになるかもしれませんね。 (2002. 27) 高校で国語教師をされている前川孝志氏よりメールをいただきました。 『声に出して読みたい日本語』は、最新版(2002. 14 第6刷)では「くにざかい」のルビになっていますが、前川氏のお持ちの版(2001. 18 第1刷)では「こっきょう」とルビが振ってあるそうです。 「讀者の指摘によつて最初の讀みを改めざるを得なかつたといふのが眞相のやうです」とのことです。 編者はむしろ「コッキョウ」派だったのか……。 また、「噂の眞相」(2002. 10)には次のようにあると教えていただきました(2003. 10 原典で確認)。 「驚いたことに齋藤は、誰もが知っている『雪国』のこの有名な冒頭の一節に、こんなふうにルビをふっているのである。 〔中略。 文芸評論家の談話として〕『声に出して読みたい日本語』のこうした とんでもない間違いは、鎌倉在住の俳人や歌人が寄稿することで知られるかまくら春秋社の雑誌『星座』の匿名コラムでもすでに指摘されていて、齋藤自身も、最近の版では一茶〔の誤植〕や『雪国』の部分はこっそり直している。 」 前川氏は、「そんなに自信を持つて決めつけられるのかと違和感を持ちました」と言われます。 僕も、「くにざかい」のほうをより好む人がいるのはうなずけますが、「コッキョウ」派を論難するほどの材料はないと思います。 (2002. 19) 「雪国」の一愛読家「N. I」さんからのご教示によれば、1961(昭和36)年3月23日にNHK教育テレビで放送された「日本の文学・川端康成」という番組のビデオが、越後湯沢の「雪国館」で流れていたということです。 その番組はどうやら、ナレーターが「雪国」を朗読し、出演していた川端康成自身がその朗読の感想を述べるものだったようです。 そのナレーターは「 コッキョウの長いトンネルを……」と読んでいたそうです。 川端康成は「コッキョウと朗読されたのを聞いており、それを認めていたのです」。 どういう表情で聞いていたのか、僕もそのビデオを見たいと思いました。 (2002. 16) ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。 email: JavaScriptがないとアドレスが表示されません。 C Yeemar 2002. All rights reserved.

次の

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・

国境 の 長い トンネル を 抜ける と 雪国 で あっ た

川端康成『雪国』の冒頭は非常に有名ですよね。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 」 二文目は「夜の底が白くなった。 」 「夜の底」という表現が独特で、こころに残る感じがするけれど、同じくらいこころに残る類似表現に町屋良平『青が破れる』で用いられていた「夜のした」という表現があります。 どちらかというとこの「夜のした」という表現の方が僕にとっては衝撃的であり、言うなればこの「夜のした」という表現を見て『雪国』の「夜の底」という表現を思い出したくらいにして、つまりここでは、「夜のした」という表現の効果を探るために、文豪川端の「夜の底」という表現を引き合いに出して考えたいというのが大きな目標となります。 「夜の底」「底」が表すのは容器感か 「夜の底が白くなった」というのは何となく詩的な表現だと感じる人は少なくないと思うけれど、言葉をよく吟味すれば、つくづく「夜」に「底」という言葉が組み合わさるのは変なことが分かります(変だから詩的な感じがあるんだろうけど)。 底ってどんなときに使うだろう? 底と言いたくなるのは、たとえばバケツの底とかコップの底とか、もしくはプールの底、海の底など、なんとなく液体を溜めることができる容器に使うケースが多いような気がしませんか。 「腹の底」とか「心の底」とかの場合もありますけど使い方は限定的で、いずれにしても「溜まるもの」が連想されるもんじゃないのか。 「谷底」とか「人生のどん底」とか「底辺youtuber」とか、単純に位置的に低い所、階層の低さを指すこともありますが、「夜の底」という表現にそんな意図があるでしょうか。 「夜の底にわだかまり」とか「夜の底に落ち込んで」とか言えばそういう意図も考えられますが、「白くなった(雪で)」があるので、やはり印象としては「(雪が)溜まるような夜」という印象の方が強いです。 よって、「夜の底が白くなった」から僕が受け取る印象は、心情的な夜というよりは「容器としての夜」です。 境界線と鏡面のイメージ この「容器」という言葉についてもっと言えば、「四辺を何らかの境界で遮られている」という印象を持つこともできます。 「国境の長いトンネル」というのは、何らかの境界で覆われているその地域へのほとんど唯一の入り口なんじゃないか。 それは物語の入り口でもあり、つまり、「堺を越える」というテーマが冒頭から記されてるんじゃないか。 書き重ねていくうちにテーマがはっきりしてきて、もっとも効果的な冒頭を付け加えたという感じなのでしょうか。 また、冒頭は文章だけでなく内容も印象的で、汽車に乗っている島村が、車窓ごしに向かいの席に座る葉子を眺め、その奥に流れる夕景色を不思議な気持ちで重ね合わせている。 川端は島村を「(後に出てくる)駒子の鏡」みたいな存在なんじゃない?って言ってるようですが、容器(境界線)の印象、そして鏡面の印象が最初にふんだんに詰め込まれている。 一連の物語を容器(ミニチュアの町みたいな?)を俯瞰する目と、汽車に乗ってその中に入りこんだ「水槽の中の生き物」的な目が溶け合って進んでいく。 これが『雪国』の冒頭だと思う。 そうしてみていくと、「境界線」に関する表現が『雪国』には非常に多いように感じられるんだけども、正直『雪国』の内容についてはけっこう記憶があやふやなので、ここでは早々に『雪国』から離れて、町屋良平『青が破れる』の「夜のした」という表現について話を進めていきたい。 町屋良平『青が破れる』の「夜のした」という表現について 「夜の底」と同じように「夜のした」という表現について考えてみると、やはり違和感はありますよね。 しかも「夜のしたに繰り出した」というような表現ではなく、「なんちゃらー。 」って文章があって「夜のした。 」と脚本の場面転換のようにそっと書かれるのが『青が破れる』におけるこの表現の目立ったところだと思います。 場面転換とはよく言ったもので、やっぱり「した」がつくことで舞台感というか、物質感があるんですよね。 「夜のなか」「夜のはざま」とか言えば「時間的な夜」が表現できると思うけれど、「夜のした」というと、まるで「夜」という薄い膜があって、そのしたに潜り込んでいる印象がある。 拵えられた夜というか、設置された夜。 「テーブルのした」とか「軒のした」みたいに、比較的近くに自分を覆う何かがあるときに「した」を使うと思うけど、それを「夜」に転用している。 「青空の下とり行われる」、「白日の下にさらされる」という表現もあるけど、それは「した」じゃなくて「もと」と読むのが普通だと思うし、だからこそわざわざ「夜のした」という風にひらがなを使ってるのかなとも思う。 もうすぐ破れそうな薄く儚い夜のしたにまだかまっていたい もし仮に、作者(他の作品でも「夜のした」ってよく使うんですよね)もしくは『青が破れる』の主人公に「夜」が一種の膜のような、舞台装置のような物質的な印象を持っているとする。 というかタイトルの『青が破れる』についてる「破れる」という言葉のせいで、それが薄い膜、今にも破れそうな膜のようなものだという刷り込みが僕たち読者に行われている感がある。 破れるのが夜だということは、『青が破れる』の「青」はまさに「夜」のことを指しているということが分かる。 というか確信はないけど検討がつく。 ではなぜ青なのかというと、きっと都会の夜ってのは「青い」んだろうなと田舎暮らしの僕なんかは思うわけです。 田舎暮らしと言えば僕もずっと田舎にいるわけじゃないので都会の夜のことも少しは知っていて、その経験と照らし合わせてみても、都会の夜ってのは儚いくらいに薄く、青い。 あと『青が破れる』の「破れる」って近未来的な表現だと思うのですよ。 日本語では現在形と未来形を区別しないけれども、この破れるは「もう少しで破れそう」って言ってるんじゃないか。 「夜がもう少しで破れる」ってことは、「もうすぐ夜が明ける」ってことだと思うんだけど、「夜が明ける」というと希望を表す慣用的な表現になってしまう。 ここでは「ああ、夜が破れてしまう」「この夜が過ぎ去ってしまう……」というもったいぶった感情があって、できればいつまでも夜のしたにわだかまっていたい感じ、ときが進むのが恐ろしい感じが強いのではないか(この感覚もなんかわかりますよね)。 そんで作品の最後の方では「まだ眠くない」って主人公が言うんですよね。 なんかここで「夜のした」から抜け出したら破れてしまいそうな心情みたいなものが表現されてる気がして、タイトルと細かな表現が呼応しあってる感じがして、非常に感動した、という話です。 塚田和嗣(ツカダカズシ) ブログのテーマは「人間と人間の関係、人間と場所の関係が作り出すもの」です。 小説を書きます。 コミュニティスペースと民泊の運営をしています。 民泊は執筆や読書など文化的な合宿を優遇します。 どうぞ。 で書いてます。 人気記事• 夏目漱石著『草枕』の冒頭はと言えば 山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ... 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」ってことば、何で知ったんだっけ。 いや、ほんとははっ... なぜあの人には話が伝わらないのか/男性脳の特徴 って記事がこのブログではよく読まれています... ラーメンズが好きなのですが、特にお気に入りのコントは『採集』かもしれません。 かもしれませ... キンブリーさんについて記事を書こうと思います。 キンブリーさんとは『鋼の錬金術師』に出て... 「多様性」が叫ばれる時代、というか「多様性」という言葉を目にする機会が増えた昨今。 このブ...

次の

川端康成『雪国』冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」と町屋良平「夜のした」という表現の意図を比べる

国境 の 長い トンネル を 抜ける と 雪国 で あっ た

今日6月14日は、大阪府大阪市北区で川端康成が生まれた日です。 日本人として初のノーベル文学賞を受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を 世界に紹介しました。 代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』 『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。 …という事で…本を読まない人でも、何となく聞き覚えのあるタイトルの… 『雪国』 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。 信号所に汽車が 止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。 雪の冷気が 流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、 駅長さあん。 」明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、 耳に帽子の毛皮を垂れていた。 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の 官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで 行かぬうちに闇に呑まれていた。 何度読んでも、印象的で映像を見ているような文章ですよね。 『雪国』は川端文学を 代表する名作と呼ばれています。 海外でも評価が高く、川端康成が受賞したノーベル 文学賞の審査対象となった作品でもあります。 多くの名誉ある文学賞を受賞し、 日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力しましたが、多忙の中、昭和47年4月16日夜、 72歳でガス自殺したとされています。 ただし、遺書がなかったことや、死亡前後の 状況から事故死という見方もあるようです。 『伊豆の踊り子』 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の 密林を 白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追って来た。 私は二十歳、高等学校の 制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カバンを肩にかけていた。 一人 伊豆の旅に出てから四日目のことだった。 修善寺温泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に 二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。 重なり合った山々や 原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を 急いでいるのだった。 いやぁ、名作というものは、最初から引き込まれるものですねぇ… ひさしく、この様な文学作品を読んでいないような…•

次の