アゲハ 蝶 歌詞。 旅人の追いかける「蝶」は何を表しているのか?ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」考察

アゲハ蝶 ポルノグラフィティ 歌詞情報

アゲハ 蝶 歌詞

昨年の夏、というタイトルでnoteを書き始めたのですが、前半(5選)で力尽き、いつか書こうと思っていた後半を置き去りにしたままほとんど1年が経過してしまいました。 なんともう、初夏です。 また今年も渚には新しいナンバー溢れていくよ。 ……というわけで、大変遅くなりましたが、後半の5選を含めた 「ポルノグラフィティの美しい歌詞10選(完全版)」です。 80年代後半~ゼロ年代生まれの人たちは基本的に、GTOのオープニングやらポカリのCMやらコナンの映画やら、好むと好まざるとに関わらずどこかしらでポルノグラフィティの楽曲に触れて育ってきたはずです。 最近あんまり聴いてないな、という人も、なんなら昨日アミューズフェス行ってきたよという人にとっても、この記事がポルノの魅力を再確認するきっかけになってくれたらこんなに嬉しいことはありません。 筆者は10数年ポルノグラフィティを追いかけてきましたが、あくまでいちファンのライターです。 独断と偏見が大いに含まれていることをご了承の上、お読みいただけたら、と思います。 「ポルノグラフィティの歌詞で印象的なフレーズを教えてください」というアンケートを1億人にとったら、おそらくこれが1位になるんじゃなかろうか。 そのくらい有名な、ポルノの歌詞を代表する黄金の1行がこの 『アゲハ蝶』(2001年)のラストだ。 初期のポルノのほとんどの曲の歌詞を書いているギタリストの新藤晴一は、複数のインタビューの中でアゲハ蝶の詞を「書き直したい」と話している。 彼は、自分の書いた歌詞にOKを出す基準を一度たりとも「下げたり、変えたりしたことはない」と公言しながらも、やはり昔の曲は拙く思えるのか、「(アゲハ蝶は)技巧に走りすぎている」としばしば言う。 ポルノの歌詞は言葉数が多いのが特徴だけれど、『アゲハ蝶』も例外ではない。 ブレスなしで畳みかけるようなボーカル・岡野昭仁の歌い方と相まって、聴いているこちらまで息が苦しくなるみたいだ。 歌人の佐藤真由美さんの短歌に、 今すぐにキャラメルコーン買ってきて そうじゃなければ妻と別れて というのがある。 用法的には『アゲハ蝶』とこの短歌はほぼ同じで、日常的な要求のあとに突如「え?」と思うような要求を連ねるというもの。 並列するふたつの願いのうち前者があまりに無邪気なので、その直後に突きつけられる「別れて」のあまりの切実さに、受け手であるこちらはハッとさせられてしまう。 ここまでは想定通りなのに、最後の最後になって 「できたら愛してください」というひと言が、思わず口から零れてしまったかのように飛び出すのだ。 この飛躍は鮮やかとしか言いようがない。 ライヴでは「Everybody say…」の煽りに合わせてお客さんが「Fu-Fu! 」と叫ぶ、定番のC&Rソング。 オリジナルは2000年発売のファーストアルバムに収録されている。 当時のポルノはまだまだとんがっていて 「トーキョーで売れてやるぜ!」感満載だったので、歌詞もいま読むとちょっと笑ってしまうくらい、かなり「狙って」いる。 Everybody! キャッチー、を辞書で引いたら出てきそうなリリックだ。 当時のポルノの歌詞には「おいヒットソング、愛をなめてんじゃねーよ」的フレーズが頻発する。 上に挙げた『Century Lovers』の歌詞は、すべてがパンチラインのようなこの曲の歌詞の中でも特にキザで格好いい。 とにかく始めから終わりまで、ポルノの若さを堪能できる歌詞だ。 ポルノのラブソングを語る上で欠かせない要素のひとつに、「自己犠牲」がある。 ポルノが歌う愛はいつでも、盲目的なまでに献身的で力強い。 「あなたのためなら命も捨てる」と言わんばかりの一心不乱さは、部分的に切りとって見るとやや演歌チックなのだけれど、そのあとに続く歌詞がむしろすごくポルノらしいのだ。 けれど、ポルノの詞の主人公は、「あなた」に愛される(かもしれない)対象である「自分」も、完全には捨てきれないのだ。 そんな自己犠牲とエゴイズムのせめぎ合いが、彼らの歌詞の中には素直に表れる(考えてみると作詞者の新藤晴一はこの相反する2つの感情(理想/エゴ)を『ロマンチスト・エゴイスト』と名づけてファーストアルバムのタイトルにしてしまっているのだからすごい)。 だからか、アルバム曲なのにやけに知名度が高い。 しかしこれは本当に掛け値なしの名曲です。 ……話はすこし飛ぶけれど、フランスの詩人・シュペルヴィエルに 『場所を与える』という詩がある。 (中略)人間がいなくなれば、さぼてんはまた植物に戻るだろう。 君を逃れようとする根本に、何も見てはいけない。 眼も閉じたまえ。 草を君の夢の外に生えさせたまえ。 ここに書かれているのは、意訳すれば「風景はきみなしでも成り立ってるってことを認めるべきだぜ」ということだと思う。 自然や芸術など、なにか圧倒的なものを前にしたときに、それを無理に言葉にしようとするのは野暮な行為だ。 だからこそ『パレット』の詞は、 「自然に介入すること」「表現すること」に潔く白旗を上げる。 曲の終わり、アウトロでは「ラララ…」という晴れやかなスキャットが続く。 あんまり派手ではないけれど、大好きな曲のひとつ。 自分の人生の主役は自分でしかありえない、というのは、新藤晴一が書く歌詞の一貫したテーマだ。 ……アグレッシブだけれど、晴一は歌詞の中で「キミの未来は明るいよ」と無責任に歌いあげることは絶対にしない。 彼の詞はただ、「いま、この世界」から逃げることを力強く容認する。 応援歌には、「前に進む」ことを歌うものと、「過去を切り離す」ことを歌うもののふたつがあるとして、ポルノの(特に晴一の)歌詞はいつでも後者だ。 だからこそ美しいと思ってしまう。 昭仁は基本的にシンプルな言葉で詞を書く人なのに、突如「!」というフレーズが飛び出るので目が離せない。 晴一の歌詞、特にラブソングには「こんなに愛しているのに」というナルシシズムが感じられるのに対して、昭仁の歌詞の「愛」はもうすこし等身大だ。 『夕陽と星空と僕』(2003年)は、『愛が呼ぶほうへ』のカップリング曲。 ファン投票で1位に選ばれたこともある壮大なバラードで、歌詞も切なく、美しい。 特にサビが白眉だ。 「誤解」や「すれ違い」といった月並みな言葉ではなく、愛や恋を文字通り、かたちあるものに例えてしまうセンスは凄まじい。 ポルノにはエロティックな歌詞も少なくない。 けれど、情事を歌っても、妖艶なのに決して下品にならないのが凄いところ。 ……にも関わらず、いやらしい生々しさを感じないのは、ベッドシーンにおいて必要以上に具体的な、「エロい」言葉を意図して使っていないからだ。 それでも、ベッドの上での行為そのものを描くときは、スッと一歩「引いて」描写する。 これについて私から言えることはもう、ない。 ただただ「ずるい」歌詞だと思う。 古臭いと分かっていて、そんな自分に酔っている。 本当にずるい。 嫌えないじゃないか、ばかにしやがって。 好きな人に好きと言うだけで何故こんなにも大変なのだろう……。 名前のないもの(時には概念)に「名前をつける」というのも、ポルノの歌詞の特徴的なモチーフだ。 晴一はかつて、2006年発表のエッセイ『自宅にて』の中で、歌詞や文章を書く理由について、こんな風に綴っている。 この感覚は歌詞にも色濃く表れていて、彼の詞の中ではしばしば「恋心」が自分には制御できない、意思を持った生き物のように描かれる。 それは「恋」が、あまりに痛みを伴う辛いものであるからに他ならない。 その結果、聞き手は「切ない」「悲しい」と主人公に言われるよりもずっと切実なものとして、「恋心」の独白に耳を傾けてしまう。 片思いを表現するのに、「僕」を主語にしない。 叙景詩的な描き方だからこそ、この詞は美しくて、切ない。 この曲について、歌詞については言いたいことがたくさんあるのだけれど、言葉を尽くそうとすればするほど嫌になってくる。 ポルノの歌詞における「時間」の概念については、おそらく『ハネウマライダー』のこの部分が分かりやすい。 他の誰かと、例えば君と、触れ合った瞬間に、歯車が噛みあって時間を刻む。 この瞬間は続くと! タモリさんはこの部分をかつて「生命の最大の肯定」だと言って褒めたけれど、『愛が呼ぶほうへ』も近しいことを歌っている。 美しい。 もうこれ以上言えることなんてなにもないじゃないか。 私たちにできるのは、ただポカンと口を開けて、『愛が呼ぶほうへ』の天国的なストリングスに耳を澄ますことだけだ。 ……余談だけれど私は全世界に存在する楽曲の中で『愛が呼ぶほうへ』が最も好きなので、死んだらこの曲を流してください、といまのうちに書き記しておきます。 つい新藤晴一さん中心の歌詞論になってしまいましたが(ごめんなさい)、ほんとうは岡野さんの歌詞についてももっともっと語りたいことがたくさんあります。 それはまたいずれ文章にすると思います。 『フィルムズ』の1番と2番の使いかたの完璧さだとか、『素敵すぎてしまった』はノーベル歌詞タイトル賞を受賞すべきだとか、あらゆる余談もそのときに譲ります。 独断と偏見にまみれた長文をここまで読んでくださった方には、感謝しかありません。 ありがとうございました。

次の

ポルノグラフィティのアゲハ蝶の歌詞を印刷したいのですがどのサ...

アゲハ 蝶 歌詞

私的に歌詞解釈 特別編は ポルノグラフィティさんの「アゲハ蝶」です。 本ブログが 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの「第一の不動の動者」を中心に書いていますので 歌詞中の「君」について 私的に「第一の不動の動者」を絡めて解釈していきます。 こてまでの私的に歌詞解釈の曲と同様に ここで言う「あなた」は「第一の不動の動者」や「真理」や「神」のようなものと考えられます。 「アゲハ蝶」という言葉には私自身に特別な思いがありますので、少し書かせて頂きたいと思います。 「第一の不動の動者」について考えるきっかけが、まさに「アゲハ蝶」だったからです。 それは、私がまだ幼稚園入園前だったので3歳くらいのことだと思います。 兄が通う幼稚園への送り迎えをいつも さぶろうおじちゃんが車でしてくれていました。 私は同乗してお迎えに行くのが好きで、いつも付いて行っていました。 兄の通う幼稚園の向かい側には大正時代か昭和の初め頃に建てられた復興小学校があり さぶろうおじちゃんが兄を迎えに行っている間、小学校の植え込みに蝶の幼虫がいて観察をしていました。 幼虫から蛹、そしてアゲハ蝶へと成長をするのを楽しみに見守っていました。 「アゲハ蝶」の成長を見て私は、「何と短い一生、卵からあっという間に蝶に成長し卵を産み付け死んでいく」 何のためにこんな短い時間を生きたのだろう、どんな楽しみがあったのだろう「アゲハ蝶の生きる意味って一体何なんだろう?」 その瞬間、その問いは自分自身へと返ってきた 生きる時間の長短はあるけれども根本的な部分は一緒ではないか 「自分が生まれて来た意味・何のために生きていくのだろう?」を考えるきっかけになった出来事でした。 歌詞の中の「アゲハ蝶」は人生や世界や宇宙を含めた全ての存在やその根源・在り方を例えたものと思われます。 「アゲハ蝶」はヒラリヒラリと私の前に現れた。 旅人にどこまで行くのかいつ終わるのと問うが旅人は終わりなどないさと答える。 旅人は未だに還ってこないが、その旅人への問い掛けは自分自身へのものであったことに気づく。 「あなた」(=「第一の不動の動者」や「真理」や「神」)に逢えた(と感じた)だけで、世界に光が差し輝きだした。 詩人の一片の言葉は、同じ経験をしたもの(「友」)に届けばいいと思う。 出来る事ならば「あなた」に届いてくればと思うがそれは叶わぬことだろう。 「あなた」を求め続けることは、まるで進むことも戻ることも出来ず終わりも無い、観客もいないあまりに残酷な舞台にただ一人自分だけが永遠に立ち続けるようなものだ。 「あなた」に私の想いのひとかけらでも届くのであれば、私の身など喜んで差し出す。 でも、それでも叶わないことを解かっている、「あなた」の幻影の向こうには誰も触れられない彼の地(オアシス)がある 乾いてひび割れた心に水で潤して欲しい、出来ることなら「あなた」に愛されたい(一体となり同化して「あなた」の全てを知りたい、教えて欲しい) 肩で羽を休めるかのごとく、また私にそっと「あなた」を感じさせて欲しい 「君」との出逢いについは 他のアーティスト作品にも同様に解釈出来るものがありますので 今後も私的に解釈していきたいと思います。

次の

アゲハ蝶歌詞似? トイレ貼り紙

アゲハ 蝶 歌詞

私的に歌詞解釈 特別編は ポルノグラフィティさんの「アゲハ蝶」です。 本ブログが 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの「第一の不動の動者」を中心に書いていますので 歌詞中の「君」について 私的に「第一の不動の動者」を絡めて解釈していきます。 こてまでの私的に歌詞解釈の曲と同様に ここで言う「あなた」は「第一の不動の動者」や「真理」や「神」のようなものと考えられます。 「アゲハ蝶」という言葉には私自身に特別な思いがありますので、少し書かせて頂きたいと思います。 「第一の不動の動者」について考えるきっかけが、まさに「アゲハ蝶」だったからです。 それは、私がまだ幼稚園入園前だったので3歳くらいのことだと思います。 兄が通う幼稚園への送り迎えをいつも さぶろうおじちゃんが車でしてくれていました。 私は同乗してお迎えに行くのが好きで、いつも付いて行っていました。 兄の通う幼稚園の向かい側には大正時代か昭和の初め頃に建てられた復興小学校があり さぶろうおじちゃんが兄を迎えに行っている間、小学校の植え込みに蝶の幼虫がいて観察をしていました。 幼虫から蛹、そしてアゲハ蝶へと成長をするのを楽しみに見守っていました。 「アゲハ蝶」の成長を見て私は、「何と短い一生、卵からあっという間に蝶に成長し卵を産み付け死んでいく」 何のためにこんな短い時間を生きたのだろう、どんな楽しみがあったのだろう「アゲハ蝶の生きる意味って一体何なんだろう?」 その瞬間、その問いは自分自身へと返ってきた 生きる時間の長短はあるけれども根本的な部分は一緒ではないか 「自分が生まれて来た意味・何のために生きていくのだろう?」を考えるきっかけになった出来事でした。 歌詞の中の「アゲハ蝶」は人生や世界や宇宙を含めた全ての存在やその根源・在り方を例えたものと思われます。 「アゲハ蝶」はヒラリヒラリと私の前に現れた。 旅人にどこまで行くのかいつ終わるのと問うが旅人は終わりなどないさと答える。 旅人は未だに還ってこないが、その旅人への問い掛けは自分自身へのものであったことに気づく。 「あなた」(=「第一の不動の動者」や「真理」や「神」)に逢えた(と感じた)だけで、世界に光が差し輝きだした。 詩人の一片の言葉は、同じ経験をしたもの(「友」)に届けばいいと思う。 出来る事ならば「あなた」に届いてくればと思うがそれは叶わぬことだろう。 「あなた」を求め続けることは、まるで進むことも戻ることも出来ず終わりも無い、観客もいないあまりに残酷な舞台にただ一人自分だけが永遠に立ち続けるようなものだ。 「あなた」に私の想いのひとかけらでも届くのであれば、私の身など喜んで差し出す。 でも、それでも叶わないことを解かっている、「あなた」の幻影の向こうには誰も触れられない彼の地(オアシス)がある 乾いてひび割れた心に水で潤して欲しい、出来ることなら「あなた」に愛されたい(一体となり同化して「あなた」の全てを知りたい、教えて欲しい) 肩で羽を休めるかのごとく、また私にそっと「あなた」を感じさせて欲しい 「君」との出逢いについは 他のアーティスト作品にも同様に解釈出来るものがありますので 今後も私的に解釈していきたいと思います。

次の