大江山の歌 いかに心もとなく思すらむ。 3の1 和泉式部保昌が妻にて丹後に下りけるほどに・・・ [やたがらすナビ]

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大江山の歌 いかに心もとなく思すらむ

大江山 ・ (古文記事一覧)>ひと目でわかる 和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、 和泉式部が、保昌の妻として、丹後に下ったころに、 京に歌合ありけるに、小式部内侍、歌詠みにとられて、 京で歌合せがあったところ、小式部内侍が、歌詠みに選ばれて、 詠みけるを、定頼中納言たはぶれて、小式部内侍ありけるに、 詠んだのを、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が部屋にいた時に、 「丹後へ遣はしける人は参りたりや。 「丹後へおやりになった人は帰って参りましたか。 いかに心もとなく思すらむ。 」と言ひて、 どんなにか待ち遠しくお思いのことでしょう。 」と言って、 局の前を過ぎられけるを、御簾より半らばかり出でて、 局の前を通り過ぎられたのを、御簾から半分ばかり身を乗り出して、 わづかに直衣の袖をひかへて、 ほんの少し直衣の袖を引っ張って、 大江山いくのの道の遠ければ 大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、 まだふみもみず天の橋立 天の橋立にはまだ行ったことはありませんし、手紙もまだ見ていません。 と詠みかけけり。 と詠みかけた。 思はずに、あさましくて、「こはいかに。 思いもかけぬことに、驚いて、「これはなんとしたことだ。 かかるやうやはある。 」とばかり言ひて、 こんなことがあろうか、いや、あるはずがない。 」とだけ言って、 返歌にも及ばず、袖を引き放ちて、逃げられけり。 返事もできず、袖を振り払って、お逃げになった。 小式部、これより歌詠みの世に覚え出で来にけり。 小式部は、この時から歌詠みの世界に名声が広まった。 これはうちまかせての理運のことなれども、かの卿の心には、 こうしたことはごく普通の当然のことだったけれど、あの卿の心の中には、 これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、 これほどの歌を、すぐに詠み出すことができるとは、 知られざりけるにや。 おわかりにならなかったのだろうか。 Copyright プロ家庭教師タカシ All Rights Reserved.

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大江山の歌 いかに心もとなく思すらむ

その時に、 【二】<代作は届いたかとの定頼の揶揄> 定頼の中納言たはぶれて、小式部内侍ありけるに、 「 丹後へ遣はしける人は参りたりや。 いかに 心もとなく思すらむ。 」と言ひて、局の前を過ぎられ けるを、 =定頼中納言がふざけ(からかっ)て、小式部内侍が 局(私室)にいた時に「丹後国へ遣わした人は京都 に帰って参りましたか。 さぞかし待ち遠しくお思い になっていることでしょう」と言って、小式部内侍 のいる局の前を通り過ぎなさったところ、 【三】<小式部が返事に詠んだ即興の見事な歌> 御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖を控へ て =小式部内侍は、御簾から半分ほど体を乗り出して、 少し定頼の直衣の袖を引き止めて 大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 =大江山を越え、生野を通って行く(丹後への)道が 遠いので、まだその先の天の橋立に足を踏み入れた ことはなく、母からの手紙も見てはいません と詠みかけけり。 =と詠みかけ(て返歌を求め)た。 思はずに、あさましくて、「こはいかに、かかるやう やはある」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引 き放ちて逃げられけり。 =定頼は、意外な事で驚き呆れて、「これはどうした ことか、このようなことがあるものか、いやある筈 がない」とだけ言って、返歌を詠むことも出来ず、 袖を引っ張り放してお逃げになったと言う。 【四】<評判が広がった小式部内侍> 小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。 =小式部内侍は、この一件以来歌詠みの世界で評判が 広がることになった。 京都から山陰道を下る時、必ず通る山城と丹波の 国境にあり、交通・軍事の要所・歌枕の地。 平安初期以来、貴族の間に流行。 平安後期 には歌人の実力を争う場となった。

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古典が分からないです、大江山の歌の問題を教えてください 大江山の歌

大江山の歌 いかに心もとなく思すらむ

ふる里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり 「平城帝の御歌」と記され、『古今集』(巻二春の歌下)収められているものである。 延暦十三年(七九四)に長岡京を経て、平安京への遷都が行われた。 が、平城天皇は、なお、旧都への思いが断ち切れず、上皇となってから、奈良に移住したのである。 既に遷都し、多くは新しい都に移され、「太宰少弐小野老朝臣」が あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり 『万葉集』(巻三) 両者を比べてその差は歴然としている。 平城天皇(宝亀五~天長一・七七四~八二四)は、桓武天皇の皇子、桓武天皇の崩御の後、皇位を継承するも、大同四年(八〇九)病を得て、譲位。 在位わずかに三年であった。 先に述べたようにその後、奈良に移る。 同じく大同五年には、「薬子の乱」が起る。 この乱は、嵯峨天皇の即位後、先に病により仕方無く退位した平城天皇を、その寵を得ていた藤原薬子が、兄仲成と共謀して、再び帝位に就かせようとしたものである。 しかし、翌弘仁元年(八一〇)に発覚して未遂に終わった。 後、上皇は空海の潅頂によって出家する。 平安初期の人々にとっては、生誕の地であり、幼少時代を過ごした場所、又往時を偲ぶ場所であった。 しかし、時代が下るにつれて「いにしへ」の都として定着してくる。 『詞花集』(巻一春)に、 一条院御時ならのやへさくら奉りけるを、其折御前に侍りければ、其花を題にて、 歌よめとおほせごとありければ いにしへのならの都のやへざくらけふここのへににほひぬるかな 伊勢大輔 この歌は『百人一首』にも採られているものでありよく知られている。 本旨と外れて、蛇足ではあるが、詞書にしめすように奈良の都に咲いた八重桜が、中宮彰子宛てに奈良の扶公僧都から送られてきた。 「この花を題にして歌よめという仰せに応じて即興で詠まれたものであり、居並ぶ貴族の賞賛の的になった。 前にこの鑑賞で採り上げた(小式部の内侍の歌、・三十三回)の「大江山の」の歌も又即興でよまれたもであり、何れも秀歌である。 伊勢大輔は、大中臣能宣の孫であり、伊勢の祭主輔親の息女。 上東門院彰子に仕えた。 父の官名によって伊勢大輔と呼ぶ。 桜と共に往時を偲ぶ歌は、他にもある。 『平家物語』「忠度都落ち」の段、忠度は一族と共に都落ちの途次引き返して、俊成の宿所を訪れ、鎧の引合せより、詠みためた歌を書き留めた巻物を出し、勅撰の沙汰の時には一首でも入れてほしと頼む。 その歌が、『千載集』「古郷花といへる心をよみ侍ける」という詞書きで掲載されている。 さざなみやしがの都はあれにしを昔ながらの山さくらかな 「勅勘の人なれば」「読人知らず」と忠度の名前は伏されている。 歌意は、志賀の都は古都となり荒廃してしまったが、山桜は昔のようにように咲いている。 志賀の都は天智天皇の都の地である。 次々と変化して留まる所のないもの。 主に人為的な営みのついての見方であろう。 それに対して、生滅を繰り返して存在する自然、一見すると、いつも変化することなく存在しているように見える。 建物も古び、人も少なくなり、往年の活気を失ってしまった古都奈良。 花は昔ながらに変わらず咲き続けている。 他が変化し、色あせているだけに一段と鮮明に目に映るのであろう。 「色もかはらず」という下の句にその感慨が示されているように思う。 日々移り変わってやまない故郷、哀感をさそうものである。 「昔を今になすよしもがな」(『義経記』等)とは、多くの人の感じるところである。 平城天皇が旧都奈良に寄せる哀感もまた同種のものである。 変わらず咲いている花を見るとなおさらである。 紅葉の山に鹿が鳴く。 秋の風物として和歌の中にしばしばとりあげられている。 『百人首』にも収録されている猿丸大夫の、「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(『古今集』秋)などは夙に周知されている。 ここで採り上げるのは、『新古今集』「秋下」の冒頭にある藤原家隆作の、 和歌所所にて、をのこどももよみ侍りしに、夕べの鹿といふことを 下紅葉かつ散る山の夕しぐれぬれてやひとり鹿の鳴くらむ である。 紅葉した下葉が散ってしまっている奥山、降り注ぐ時、雨に濡れながら、牡の鹿がひとり寂しく鳴いている。 時雨に濡れる紅葉、その中にたたずみ鳴く鹿、一幅の絵になりそうな光景である。 『新古今集』の「秋下」には、この歌のみならず、鹿を題材したものが、引き続いて、都合十六首ある。 家隆の歌はその一連の歌の冒頭を飾るものでもあり、それだけに秀歌として認識されていたものであろう。 一連の鹿の歌の中で、師忠の「山里の」の歌の詞書に「田家秋興といへることを」とあり、「夜深く鹿の声を聞く」と詠まれている。 山里の秋の風情を歌にする場合の題材として、鹿の鳴き声は最初に念頭に置かれたものである。 又、鹿の声に感興を覚えるのは、誰しものことであった。 この連作の中の一首 晩聞鹿といふことをよみ侍りし 土御門内大臣 われならぬ人もあはれやまさるらむ鹿鳴く山の秋の夕暮れ 土御門の内大臣は、久我内大臣雅通の長子、源道親のことであり、『千載集』以後の歌集に歌が散見される。 総じて、秋はものさびしいものである。 おしなべてものを思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 西行 物思いをしないような人でも、秋風が吹くと、しみじみとした情感を覚えるものである。 鹿の鳴く声を聞くと、更に哀感が増したものであろう。 家隆の歌は、諸書に引用されている。 思いつくままに例示すると、謡曲「紅葉狩」に、「このあたりに住む女」が、寂しい夕間暮れに紅葉狩に、出かける。 さてもさても色美しき紅葉かな、皆々この所に御出でなされ、幕打ち廻し、 屏風を立て、酒宴を始めさせられ候へや。 面白や、頃は長月二十日あまり、四方の梢も色々に、錦を彩る夕時雨、濡れてや鹿のひとり鳴く、声をしるべの狩場の末、げに面白き気色かな 明けぬとて、野辺より山に入る鹿の、あと吹き送る風の音に駒の足並み勇むなり 紅葉狩には鹿が取り合わせられている。 この歌の作者家隆は、従二位中納言藤原光隆の息であり、母は藤原実兼の娘である。 阿波介、越中守、上総介を歴任、文暦二年従二位に進むも、嘉禎二年、病を得て出家した。 同三年逝去、時年八〇。 壬生に住んだいたことから「壬生二位」と呼称された。 藤原俊成に師事し、『千載集』以後の勅撰集に多くの歌が採用されており、後鳥羽院の覚え愛でたく、定家と共に『新古今集』の撰者に名を連ねている。 『新古今集』(春上)には、定家の歌と並んで採られている。 摂政太政大臣家の百首歌合せに春曙といふ心を読侍りける かすみたつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空 藤原家隆朝臣 守覚法親王、五十首よませ侍けるに 春の夜の夢の浮き橋とだえして峰に分かるる横雲の空 藤原定家朝臣 このことからも両者が並び称されていたことがわかる。 定家の歌は、特によく知られている。 宇治は、平等院鳳凰堂などで有名な観光地であるが、古典文学にも度々その舞台として取り上げられている。 ここで鑑賞するのは、『千載集』の巻六「冬」におさめられている 宇治にまかりて侍りける時よめる 中納言定頼 朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえにあらはれわたる瀬々の網代木 この歌は『百人一首』にも、入れられいるものであり、周知されている。 宇治川の辺の旅寝、朝ほのぼのと明けゆく頃、川霧が徐々に晴れて行く。 霧の晴れ間に、宇治川の瀬毎に、仕掛けられている網代に使われている杭が、あらわれて来る。 一幅の墨絵をみるような早朝の宇治の風景である。 ありのままの風景をそのまま詠んだものであり、何の技巧もない。 それだけに新鮮でさわやかな感じがする。 宇治川の網代については、古くから知られていたものであろう。 『万葉集』(巻三)に、 柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時に、宇治川の辺に至りて作る歌一首、 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも 宇治川の波が網代によって、堰き止められて、流れが緩やかになっている状態を、「いざよふ波」と表現したものであり、更に一時の停滞の後、何処へ流れ下って行くのであろうか。 の意味である。 なお、この歌は『新古今集』(雑中)にも「題しらず」として,収録されている。 また、『源氏物語』には、(八の宮の屋敷が燃亡し、宇治の山荘に移る。 その山荘は、宇治川の畔にあった。 ) 網代のけはひ近く、耳かしがましき川のわたりにて、静かなる思ひかなはぬ方もあれど、いかがせん。 (橋姫) 水音が間近に聞こえている。 網代は『源氏物語』の宇治の描写に度々取り上げられている。 宇治には藤原頼通の別荘があったことでもよく知られている。 頼通の出家後、改められて無量寿院(鳳凰堂)となる。 当時から貴族の別荘があった。 また、宇治は大和への途次にあり、初瀬(長谷寺)への参詣の折「中宿り」にすることも多かった。 「椎本の巻」の冒頭にも匂宮が宇治に中宿りしたことが見える。 そういう背景によつて、夕霧の別荘も宇治川の畔、八宮の屋敷の川を隔てた対岸にあった。 十月の頃薫は匂宮を宇治に誘う。 十月一日ごろ、網代もをかしきほどならむとそそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ずべく申しさだめたまふ。 冬に入り、宇治川の網代に上がる魚、折からの宇治山の紅葉。 これらは初冬を彩る風景であろう。 薫が匂宮を宇治へ誘いの言葉の中にも用いられている。 この歌の作者、藤原定頼は公任の息であり、中古三十六歌仙の一人。 和歌、書等に秀でていた。 よく知られているのは、『金葉集』(巻九)には、和泉式部不在の折「歌あわせ」があり、その娘小式部の内侍に 「丹後に使いは遣ったか、返事は来たか」と、問いかけ、「大江山いくのの道の遠ければまだ文も見ず天の橋立」という歌で即座に逆襲されて、面目を失ったという逸話がある。 (本鑑賞三十三回「小式部の内侍の歌」を参照されたし)。 定頼の歌は、『後拾遺集』以下の勅撰集に収められている。 例えば、『後拾遺集』 (秋下)に 大井川にてよみ侍ける 水もなく見えこそわたれ大井川みねのもみぢは雨とふれども この歌は『西行上人談抄』にも、採り上げられている。 大井川はいつも水が流れているが、今は秋たけなわ、紅葉が川一杯に流れ紅葉の雨が降ってはいるが、水が見え無い程である。 『西行上人談抄』では、 「水もなく見えわたるかな大井川とよみあげたりけるにはや不覚してけりと、顔の色を違へて、思はれたる」 と、不安であった旨が記されている。 この歌は先の「あさぼらけ」の歌とは趣を異にして、淡々と事実を詠み出したものではないが、川一杯に紅葉の流れている様子がわかる。 野分する野辺のけしきを見るときは心なき人あらじと思ふ 『千載集』(秋上)にある藤原季通の歌である。 詞書きに「百首歌奉ける時、秋の歌とてよめる」とあり、「秋歌」という題で詠まれたものであることがわかる。 「吹き荒れる野分の風雨にさらされている野辺の様子を見る時には、誰しも感慨を覚えるものであり、何も感じない人はいまい」。 野分は今日の台風であるが、秋の野原は暴風雨によって、荒れている。 その景色に憂世を重ね合わせる人もいようし、盛者必衰の道理を思う者もいよう。 『枕草子』に、野分についての記載がある。 野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。 立蔀・透垣などの乱れたるに、前栽どもいと心苦しげなり。 大きなる木どもも倒れ、枝などこそ吹き折られたるが、萩・女郎花などの上に横ろばひ伏せる、いと思はずなり。 格子の壺などに、木の葉ことさらにしてらむやうに、こまごまと吹き入れたるこそ、、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。 (一八八段) 台風一過の様子である。 風や雨であちこち散り乱れている。 その景色を「いみじうあはれに、をかしけれ」と感じている。 取りかたずけられ、整然としているよりも、寧ろ台風一過の乱雑で雑然している風情に「をかしみ」を見い出している。 この前段の「十月ばかり、木立多かるところの庭は、いとめでたし」 にも共通するものである。 移りゆく自然のしかも、ありのままの姿の中にある美である。 『玉葉和歌集』(秋上)に、「風後草花」といふことをよませ給うける」 夜もすがら野分の風のあとみれば末ふす萩に花ぞまれなる 新院御製 伏見後院の作である。 一晩中、野分の風が吹き荒れた朝の景色を詠んだものである。 この歌もまた、『枕草子』と共通する台風一過の景である。 、『源氏物語』「野分」の巻の冒頭にも、野分の描写がある。 野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色どり変わりて吹き出づ。 と、台風の襲来を述べ、以下その状況が細かに描写されている。 その結果、屏風なども押し畳み寄せられて、遠くが見渡されて、常には見ることの出来ない紫の上を、夕霧が目にするこことなる。 これは、野分の翌朝の出来事であり、物語の展開に関連を持っている。 また、「桐壷」の巻にも、桐壷の帝が、今は亡き更衣のもとに、使者を派遣したのは野分の襲来を感じさせる夕方であった。 野分だちて、にはかに膚寒き夕暮れのほど、常よりおほしいづること多くて、靫負の命婦といふをつかはす。 その屋敷は、寂しいものであった。 草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月ばかりぞ、八重葎にさはらず、さし入りたり。 夕暮れに、野分の風が吹き何となく寒々として様子と、更衣を先立せて、心細くし独り住みしている更衣の母。 屋敷も手入れが遅滞して荒れてくる。 そこに傷心の帝の使いが、八重葎を押し分けるようにして訪れる。 野分によって、吹き荒らされている秋の草々は、また心象を投影しているのかもしれないと思う程である。 また、『和泉式部日記』にも、 つごもりがたに(八月末)に風いたく吹きて、野分だちて雨などふるに、つねよりももの心細くて、御文あり。 とある。 野分を自然の出来事としてとらえ、その過ぎ去ったあとの吹き荒らされた風景の中に、流転して已まないこの世の相を重ね合わせたのであろう。 季通の歌は、勅撰集に収録されているものでは、『千載集』の十五首が主である。 その中で、「野分する」の歌のように、「秋の歌とてよめる」という詞書のあるものは、二首である。 何れも、「崇徳院に百首の歌奉りける時、秋の歌とてよめる」という詞書である。 秋の夜は松をはらはぬ風だにもかなしきことのねをたてずやは(三〇三) ことごとにかなしかりけりむべしこそ秋の心を愁といひけれ 愁傷とした秋の風情を表現したものである。 世の中を何にたとへむ秋の田をほのかにてらす宵のいなづま この歌は『後拾遺集』(巻十七)に収められている源順の歌である。 世の中とは、どのようなものかと言う。 世の中は喩えてみれば、夕方の秋の田を、いなずまの光が瞬間照らすようなものである。 闇を照らす雷光。 ほんの一瞬のことであり、そのあとには、又前より一層暗く感じる闇がある。 一瞬の雷光それが世の中である。 この歌には、詞書がある。 世の中を何にたとへんといふ、ふるごとを紙に書き置きて、あまた読み侍りけるに この歌は『源順集』に類歌が、詞書とともに収録されている。 応和元年七月十一日四歳なる女子をうしなひ、同年八月六日又いつつなるをのこ子を失ひて、無常の思ひ物に触れておこる、悲しみの涙乾ず、古万葉集中に沙満誓が詠める歌の中に世中を何にたとへむといへることをかりてかしらにおきて詠める 世の中を何にたとへむあかねさす朝日待つ間の萩の上の露 世の中を何にたとへむ夕露もまだでぎえぬるあさがほの花 世の中を何にたとへむ飛鳥川定めなき世にたぎつ水のあわ 世の中を何にたとへむうたた寝の夢路ばかりに通ふ玉ほこ 世の中は何にたとへむふく風はゆくへも知らぬ峰の白雲 世の中を何にたとへむ水はやみかくづれゆく岸のふし松 世の中を何にたとへむ秋の野をほのかに照らすよひの稲妻 世の中を何にたしへむにごり江のそこにならでも宿る月影 世の中を何にたとへむ草も木も枯れゆくころの野辺の虫のね 世の中を何にたとへむ冬の夜をふると見る間にけぬる淡雪 これらの歌は、子供を引き続き失った順が、「無常の思ひ物に触れておこ」ったので、その気持ちを歌に寄せて表白したものである。 この無常な世の中は、何に喩えようか、喩えようもない。 何と喩えても十分ではない。 という切々とし思いが連作の中に込められている。 作者の源順は、延喜十一年(九一一)生。 永観元年(九八三)没。 時年七十三。 恵まれた人生とは言いにくかった。 四十三歳までも、文章生であったことを見てもわかる。 が、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって、撰進した『倭名類聚抄』は、百科事典のような辞書であり、博学の様が偲ばれる。 また、梨壺におかれた和歌所の召人、「梨壺の五人」の一人として、大中臣能宣、清原元輔、紀時文、坂上望城と共に撰ばれている。 和歌所の仕事は、『万葉集』に訓をつけることと、勅撰集を撰ぶことであった。 当時『万葉集』の万葉仮名といわれる独特の仮名は、難解になっていたのである。 で、附訓するし必要があった。 「世の中を」の歌が『万葉集』の満誓の歌を念頭においてのも、そういう事情によろう。 その歌は、『万葉集』(巻三)にある。 世の中を何に喩へむ朝開き漕ぎ去りにし船の跡なきごと (世の中は、朝港を漕ぎだしていった船の、何の跡もないようなものだ。 ) である。 改めて、先の連作には、色々な比喩を用いて、世の中の無常な様を述べている。 いくつかの例を見よう。 第一首目の歌「あかねさす朝日まつまの萩の上の露」、世の中は、朝日がさすのを待っている間の、萩の葉の上の露のようなものである」。 露と無常の関わりについては、この鑑賞「第二十六回 末の露」に述べたので、ここでは詳述しない。 秋になり、朝露が目につくようになる。 朝方に気温が下がるのである。 しかし、朝露は朝日が昇るとともに、蒸発してしまう。 文字通り「朝日待つ間」の、ほんの短い間出来事である。 世の中もまたそれと同じように短く、はかないものである。 第三首「飛鳥川定めなき世にたぎつ水のあわ」。 「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」「『古今集』十八」と詠われ、「瀬の定まらぬ川」として、知られていた。 その飛鳥川の早い流れによって、出来ては消え消えては出来る泡のようなものである。 よく知られているが、『方丈記』にも、川と泡(うたかた)の記載がある。 (「いく川の流れは絶えずして」考 拙稿参照)早瀬の水に出来る泡は、発生消滅瞬時のものであり、無常の様を具現化したようなものであろう。 他も同様である。 「降ると見る間に解けてしまう雪」(十首目)であったりする。 これらは、全てこの世の普通の出来事であり、一見すると、何処でも何時も起り続けていることであり、むしろ普通すぎて看過してしまうものであろう。 が、七月八月と引き続いて、四歳五歳の子供を失った順の目には、日ごろは見過ごしていたものが、無常の現実を提示するものとして、改めて認識させられたのであろう。 思うに、遍満するもの全てが、移り変わるものであり、何一つ常住なるものは無い。 諸行無常の故である。 が、それを感得する眼を持ち合わせていないのである。 肉親の特に幼子の死は、その無常の現実が目の前に示された相と言えよう。 順もまた、その現実に接した時、世の中にある今まで感じなかった事実を改めて、無常を告げるものと受け止めたのであろう。 それが、この連作である。 余談であるが、その無常の事実に触れた時、誰しも愕然として絶望したり、悲しんだりすものである。 しかし、大多数の人は、日常生活の中で、徐徐に忘れて行って、元通りのになるのである。 稀に、一部の人が、忘れることなく、待ち続けている。 例えば法然が、父の死を縁にしたように、すると、出家して仏道に邁進することとなるのであろう。 『更級日記』の作者である菅原孝標の女は、御物本の奥書に 常陸守菅孝標の女の日記なり。 母、倫寧朝臣の女、伝の殿の母上の姪なり。 夜半の寝覚、御津の浜松、みづからくゆる、あさくらなどは、この日記の 人のつくられたるとぞ とあり、『更級日記』の他にいづれも散逸されてはいるが、物語を作ったことが伝えられている。 『源氏物語』についての関心の一入であったことは、周知されている、物語を作ったことも頷けよう。 孝標の女の誕生は日記の記載などから、寛弘五年(一〇〇八)である。 一条天皇の皇子敦成親王が誕生したのもこの年であった。 父が上総の介に任じられて一緒に下向したのは十歳の時であり、四年後任果てて上洛する時の記述からはじまるのが、『更級日記』である。 この日記には、作者孝標の女の一生の軌跡が表現されている。 ここでは、いくつかの歌を概観しながらその軌跡を辿ってみたい。 その言わば成長過程は、物語に夢を託し、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」と願ってる。 が、都に帰り年を経て否応なしに現実生活の中に身をおくことになる。 長元九年(二十九歳)の時には父孝標(六十四歳は、)常陸の任を了えて上洛、母は出家し、家事から身を引いたので、必然的に作者は一家の主婦の役割をすることになる。 三十三歳(長暦年)にして、橘俊通(三十九歳)と結婚。 一般の人がそうするであろう生活を営んでいく。 しかし、それは願ったそれとは異なるものであった。 「このあらまほしごととも、思ひしことどもは、、この世にあんべかりけることともなりや」と感じるようになる。 それかと言って、「あなものぐるほし、いかによしなかりける心なり、と思ひしみはてて、まめまめしく過ぐすとならば、さりとてもありはてず」何事にも徹底出来ずに居ると自省する。 時として、祐子内親王の御前に宿直した折も、水鳥の羽音に浅い眠りを妨げられて わがごとぞ水の浮き寝に明しつつ上毛の霜をはらひわぶなる と詠む。 夜通し羽を動かしている水鳥の羽音を聞きながら、宿直の夜安眠出来ない我が身に引き比べたのである。 願望と現実との乖離、(ある意味では当然のことではある)が進めば進む程、現世への失望を深めいく。 これも当時としては当然の帰結であろうが、仏教への傾斜を深めて、「天照御神を念じませ」という夢告を無視して物語に夢中であったことを「人にも語らず、なにとも思うはでやみぬる、いと言ふかひなし」と、述懐しなければならなかった。 その結果が『更級日記』で只一か所、日時の明記されている。 阿弥陀仏の夢である。 天喜三年十月十三日の夜の夢に,居たる所の家のつまの庭に、阿弥陀仏立ちたまへり。 さだかには見えたまはず、霧ひとつ隔てたるやうにて~ 以下詳述されているのであるが、夢の中で、「阿弥陀仏来迎」に遇う。 そして、「このたびは帰りて、のちに迎へに来む」と声をかけられる。 言わば臨終の折には、来迎するという言わば予約である。 で、「この夢ばかりぞ後の頼みとしける」と来迎を待ちつつ残りの人生を生きる。 因みに天喜三年は、四十八歳の時で、晩年に近い頃である。 さて、日記の中に概算して七十首余りの歌ある。 ここで鑑賞したいのは、『更級日記』の末尾にある歌である。 今は世にあらじものとや思ふらむあはれ泣く泣くなほこそは経れ 既に夫俊通は亡く老いで孤独に耐えつつ過ごしている。 「ねんごろに語らふ人の、かうてのち、おとづれぬに」に対して詠んだ歌である。 「かうてのち」独り身にして生きるようになってから、訪れてくれないのは、私が既にこの世に亡いと思っておられるからでしょうか。 私は泣きながら生き永らえておりますのに。 老いて寂しく人の訪れを願う時になっているのに、以前は足繁く訪ねてくるた人も次第に疎遠になりついには途絶えてしまう。 この歌に引き続いて、 ひまもなき涙にくもる心にも明しと見ゆる月の影かな 月の明るさだけが心に響く。 涙しながら夜空の月を仰ぎみている姿がある。 再末尾の 茂りゆく蓬が露にそぼちつつ人にの訪はれぬ音をのみぞ泣く この三首には老いて孤独に涙しなから、懸命に活きている作者の姿がある。 一方では阿弥陀仏来迎の夢によりつつ、しかし、即座に来迎するわけではない。 「のちに迎へに来む」という。 振り返ってみると夢のような人生であり、気付くと老いに歎いていた。 が、それだけに来迎の夢は夢幻の人生に於ける唯一の救いであったのだろう。 孤独に耐えればそれだけに来迎の確かさが実感されたのであろう。 世の中には来迎に預かることなく、無明の闇を流転する人も多くいたに違いない。 その点一縷の救いのある『更級日記』の作者は幸せなのかとも思う。 西行の家集『山家集』(春上)に次の歌がある。 山寺の花盛りなりけるに、昔を思ひ出でて 吉野山ほきぢ伝ひにたづね入りて花見し春はひと昔かも この歌は、「山寺の花が満開になっているのを見て、昔を思い出して」と詞書にあるように、往時の事を思い出して詠んだものである。 吉野山で花を見る折、峻厳な山道を伝いながら山深くまで尋ね行って満開の桜を愛でたのは、思えば一昔前のことであったなあ。 (今は年を重ねて崖路をたどりつつ、花を求める事は困難になってしまった。 )言わば西行がその老いを自覚した歌ということが出来よう。 西行が桜に一方ならず心を懸けていたことは、夙に知られている。 吉野山には、道を変えながら花を尋ねている。 花の歌とてよみ侍りける 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ 『新古今集』(春上) 年ごとに道を変えながら吉野山に桜の花を尋ね歩いたのだあろう。 そして往時踏破した崖路は歩くことが困難になってしまったと、振り返っている。 同じく『山家集』に 花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふ我が身に 出家して世俗の情は全て捨ててしまったと思っているのに、花に染む心はどうして残っているのであろうか。 花を愛でる心を放擲出来ない西行のとまどいが「いかで残りけん」に集約されている。 出家した西行の心中には出家とはかくあるべきという理想があり、他方思うに任せぬ人間としての現実があった。 その両者の確執はすでに「捨て得ぬ心」(第一回)にも述べた。 花への気持ちは終生変わらず、「願はくは」という辞世の歌に結実している。 さて、「生老病死」というように、「老い」は誰しも避けることの出来ないものであり、かつ平等に訪れるものである。 只「老い」はそれを自覚することにより、はじめて現実味を帯びるのである。 自覚は個人差があるだろうが、例えば、今まで当然のように行っていたことが、ある日出来なくなる。 見えていたものが霞んで見えなくなる。 髪に白いものが混じっていることに気付く。 「無常の使い」と言われる所以でもあろう。 そのような事態に立ち至って慌てたり、困惑したりした例も多々ある。 先の歌で西行は、昔は険しい山道を伝いながら桜を楽しんだが、今は足腰弱くなってそれが出来なくなった。 と、詠んでいる。 山野を自由に闊歩出来なくなった我が身の老いの現実に接し、どう考えていたかは、この歌から読み解くことは出来ない。 老いも又、花と共に詠まれている。 老見花といふことを 思ひ出でに何をかせましこの春の花待ちつけぬわが身なりせば ふる木の桜の所々咲きたるを見て わきて見ん老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき 二首ともに『山家集』(春上)にある歌である。 一首目は桜の花の咲くのを待っているのであるが、今年の花の咲くのを見ることなく死んでしまったならば、何を思いでにしたらいいのだろうか。 「見花」とあるので、幸いに花をみることが出来た。 (はたして来年はどうだろうか)。 一年毎の命の危うさと大事さを感じる歌である。 二首目は桜の古木に疎らに花も咲いているのを見て詠んだものである。 この桜は後何回花を咲かせるであろう。 (花もそうだが花を見ている自分も老年であり、何年生きて花を見ることが出来よう)。 花を見る人、見られる桜両者とも老境である。 老いて花を見る感慨が詠われている。 桜を今生の思い出にしようの思いは、 いかでわれこの世のほかの思ひ出に風をいとはで花をながめん『山家集』 西行の山家の住まいは又反面寂しさに耐えつのものであった。 秋の夜をひとりやなきて明かさましともなふ虫の声なかりせば 秋の夜に声を休まずなく虫をつゆまどろまで聞きあかすかな『山家集』秋 秋の夜長に鳴く虫の声を聞きつつ、夜を明かし、涙している。 訪へな君夕暮になる庭の雪を跡なきよりはあはれならまし 『山家集』(冬) 冬の部には朝の雪の歌もあり、足跡がつくのを憚っている。 夕暮れと朝と区別している。 西行の美観が感じられよう。 自然を友としながら行雲流水の如き生き方をしているように見えるが、 世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬ我が身なりけり 捨てしをりの心をさらに改めて見る世の人に別れ果てなん 『山家集』(雑) 世を捨てて出家したものの、猶揺れ動く西行の心が表白されている。 人間たるの所以であろうと思う。 それだけに又反面共感されるのである。 大江山いく野の道の遠ければまだ文も見ず天の橋立 『百人一首』にも収録されているあまりにも有名な小式部内侍の歌である。 この歌はその内容もさりながら、詠まれた背景に興味が持たれる。 そのことは『金葉和歌集』(巻九雑上)に 和泉式部保昌にぐして丹後国に侍りけるころ都に歌合せのありけるに小式部内侍歌詠にとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて歌いかがせさせ給ふ。 丹後へ人はつかはしけるや使はまうでこずやいかに心もとなくおぼすらむ。 などたはぶれて立ちけるをひきとどめて読める 母和泉式部の不在の折に歌合せに参加することになった小式部内侍に対して、藤原定頼が「丹後に使いは遣りましたか、その返事の使いは帰って来ましたか」と揶揄したことへの返事の歌である。 「立ちけるをひきとどめて」とあるので、間、髪を入れずに即答されたものである。 (『袋草紙一』には「式部取直衣袖云」とある)。 この歌の意味は、「大江山を越えて生野へ行くのは道はるかに遠い。 まだ踏み分けて行ったことも無ければ、もちろん母からの手紙を貰ったことも無い。 」掛詞を用いて意味を膨らませて、揶揄に応えたものである。 件の『袋草紙』には「定頼卿ヒキヤリ逃ト云」とあり、ほうほうの体で退散したものであろう。 小式部内侍の才能と怜悧を余すところなく披瀝した歌である。 『無名草子』にも小式部内侍についての記載がある。 小式部内侍こそ、誰よりもいとめでたけれ。 かかるためしを聞くにつけても、命短かりけるさへ、いみじくこそ思ゆれ。 さばかりの. 君に、とりわき思し時めかされ奉りて、亡き後までも御衣など賜はらせむ程、『宮仕への本意、これにはいかが過ぎん』と思ふに、果報さへい、いと思ふやうに侍りし。 万の人の心を尽しけむ、妬げにもてなして、大二条殿いみじく思はれ奉りて、やんごとなき僧子生み置きて隠れにけむこそ、いみじくめでたけれ。 歌詠の思へは和泉式部には劣りためれど、病限りになりて死ぬべく思えける折に、 いかにせむいくべき方も思ほえず親に先立つ道を知らねば と詠みたりけるに、その度の病忽ちにやみたりけるとかや。 それにて、このもの道の勝れたるほどは見知りぬ。 この後に「大江山の」の歌の説話を載せる。 小式部の歌の素晴らしさについての賛辞である。 「いかにせむ」の歌の功験により病の癒えた説話は、『古今著聞集』『十訓抄』などにも載せる。 小式部の即興性は他の説話にもある。 これも今は昔、大二条殿、小式部内侍おぼしけるが、たえ間がちになれける比、例ならぬ事おはしまして、ひさしくなりてよろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひけるに、小式部、台盤所にゐたりけるに、出させ給とて、「 死なむとせしは。 など問はざりしぞ」と仰せられてすぎ給ひけるに、御直衣のすそを引きとどめつつ、申けり。 しぬばかり歎きにこそは歎きしかいきて問ふべき身にしあらねば 堪えずおぼしけるにやかき抱きて局へおはしましてねさせ給ひにけり。 この歌は『後拾遺集』(雑三)にも収録されている。 虚を突かれた教通の感動の様が、後の行動に示されている。 又、『宇治拾遺物語』には、艶談も載せる。 「小式部内侍、定頼卿の経にめでたき事」には、定頼、教通を同時期に通わせていたことが記されている。 類話は『古事談』にもある。 式部は橘道貞と和泉式部の間に生まれた。 和泉式部はその美貌と歌才が有名である。 が、いかんせん夭折(二十六、七)した為に残されている歌は少ない。 『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』などに残されている。 『詞花集』(雑上)の 二条関白白河川へ花見にせむと言はせて侍りければ詠める 春の来ぬ所はなきを白河のわたりにのみや花は咲くらむ 教通の訪れの無いことを嘆いた歌である。 この歌もすぐさま返歌されたものであろうか。 なお、和泉式部の歌については、本鑑賞でも「和泉式部の不安」(第九回)「冥きより~」の歌を取り上げた。 この「大江山」の歌の成立の経緯によって小式部の才女振りは周知されたものであろう。 時機相応に歌を作りつつ、当時の貴族世界を駆け抜けて行った才女の姿が浮かびあがってくる。 源実朝は、周知のように鎌倉幕府の第三代将軍である。 源頼朝の第二子、母は北條政子。 実朝誕生の時、父頼朝は四十六歳。 兄頼家とは十歳の開きがあった。 共に夭死している。 頼家は正冶元年(一一九九)父頼朝の急逝に伴い家督を継いで間もなく北條氏と争いに破れて、伊豆修禅寺に幽閉され翌年元久元年(一二〇四)に殺された。 時年二十二。 (『修禅寺物語』「岡本綺堂」はその間の事を取り扱った作品)。 実朝は兄の出家と同時に建仁三年(一二〇三)十二歳の時に征夷大将軍に補せられた。 実朝の名前も後鳥羽院から下賜されたものという。 実朝は都合十六年間将軍であり続けたことになる。 鶴岡八幡宮での境内で頼家の遺子公暁の為に非業の死を遂げる。 これにより源頼朝以来の源氏の系統は途絶え、北條氏による執権制になるのである。 実朝には、所謂武人の頂点としての征夷大将軍らしい政治的営為(武を背景にして政治をする)というようなことは見出し得ない。 むしろ『金槐和歌集』の作者としての方が異彩をはなっている。 さて、ここでは実朝の歌のいくつかを鑑賞してみたい。 実朝の歌は多く『金槐和歌集』に収録されている。 (猶、ここでの引用は新潮社の日本古典集成のものによった。 )実朝と藤原定家との交流はよく知られている。 また、実朝は京都坊門家の信清の息女を妻にしている。 坊門家は後鳥羽院の生母の実家である。 院も又和歌に優れ、和歌所の設置。 『新古今集』を撰したりしている実朝は鎌倉に居り、都から遠く離れてはいるものの、当時の在京の歌人との交流の程も窺い知れる。 が、立場も違い住む場所も違うので、自然と歌も違ってくる。 「霰」という題での詠。 もののふの矢並みつくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原 那須の篠原で狩をする武士、獲物を狙って矢を放し、二の矢を放すべく準備をしているのであろうか。 背中に負う箙(えびら=矢を入れて背中に負うもの)にある矢の並び具合を整えている。 その間にもあいだにも籠手(こて=腕全体を覆い隠して保護するもの。 布製)に霰が降りかかり又辺りに飛び散っている。 武士ならではの勇壮な情景である。 建暦元年七月、洪水天に漫り、土民愁嘆せむことを思ひて、ひとり本尊に向ひたてまつりて、いささか祈念を致して曰く 時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ 人口に親炙している歌である。 七月の頃秋のはじめであり、収穫の時期にあたっていたであろうか。 「洪水天に漫り」、雨うち. 続いて大洪水になり、多くの人々の嘆くであろうことを慮って、本尊に向かって、雨の止むことを乞う。 それが「時により」以下の歌である。 時に実朝は十九歳。 天下の万民に思いを馳せる将軍らしい意識と気概が表出したものであろう。 深山炭焼くを見てよめる 炭を焼く人の心もあはれなりさてもこの世を過ぐるならひは 「時により」の歌と同種の歌である。 深い山に籠って炭を焼き生業としている人の気持ちにも共感出来る。 この世を過ごし渡って行くことは「あはれ」である。 又、実朝の心は「慈悲の心を」という詞書の ものいはぬ四方の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ 言語による感情表現の出来ない獣。 それでさえも親が子供のことを思い慈しんでいる。 「あはれ」なこどてある。 殊勝で素晴らしい位の意味であろうか。 「すらだに」「かなや」と言う表現に、本能として具備されている親の子供に対する気持ちを「慈悲の心」と理解したものであろう。 それは勿論子供の良しあしとは無関係に存在するものである。 その意味で仏の衆生を慈しむに類似している。 この歌に引き続いて いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる 「道のほとりに」幼い子が母を尋ねて泣いているのを見て詠んだものである。 俎板といふものの上に、雁をあからぬさまにして置きたるを見てよめる あはれなり雲居のよそにゆく雁もかかる姿になりぬと思へば 俎板の上に載せられて料理されようとしている雁。 本来なら雲の上を飛行し、「過雁」等と仰ぎみられるものを、料理されようとは、あはれで悲しいものである。 「あはれなり」と冒頭に詠んだところが、その寄せる気持ちの深さを表している。 これらの歌には、実朝の生きる者に対する細やかな気配りと感情が表現されている。 『新古今集』歌人のものとは明らかに異質な歌の世界がある。 荒磯に波の寄せるを見てよめる 大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも この歌にも、その勇壮さの裏に一抹の寂しさが漂うように感じられるのも尤もなことかも知れない。 征夷大将軍としての武人の気概、しかし、具体的な行動でその様を表現する機会はなかった。 その故か、内面の繊細さが表出している。 京都を遠く離れた鎌倉にありながら歌を詠み続けた実朝の歌の異質さ、以上のように見ることが出来よう。 小野小町の歌のいくつかを鑑賞してみよう。 小野の小町は紀貫之の書いた『古今集』の序文に次のようにある。 小野の小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。 あはれなるようにて強からず。 いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。 つよからぬは女の歌なればなるべし。 小町の生没年は明らかでないが、その全盛期は「仁明天皇の時代(在位八三三~八五〇)である。 「日本古典文学大辞典」。 小町の歌で夙に周知されているものには、恋についてのものが多い。 『古今集』の巻十二「恋歌二」の冒頭に小町の歌が三首ある。 この歌の成立の事情は、『小野小町集』(古典全書・朝日新聞社)に、次のようにある。 夢に人の見えしかば 思ひつつぬればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを これを人にかたりければ、あはれなりける事かなとある御返し うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものを頼みそめてき 返し 頼まじと思はんとていかがせむ夢よりほかに逢ふ夜なければ いとせめて恋しき時はうば玉の夜の衣をかへしてぞ着る いづれも思うに任せぬ現実があり、せめて夢の中ででも思う様に逢瀬を重ねたいという小町の願いが切々と感じられる歌である。 限りなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ が、その夢の逢瀬も時にはままならないものであった。 やんごとなき人の忍び給ふに 現にはさもこそあらめ夢にさへ人目つつむと見るが侘しき (身分尊い人との恋は人の目があって忍びつつであったが、夢の中でも人目を憚っているとは侘しいものだ。 ) 世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありて無ければ 更に、世の中そのものも、現実なのが、夢なのか区別がつかない。 有るようで、無いようなものであるから。 「胡蝶の夢」のようである。 ここには現実と夢との間を行き来してどこにも安住しえない小町の姿がある。 六歌仙の一人僧正遍昭と小町の清水での出会いが『大和物語』にある。 小野の小町といふ人、正月に清水にまうでにけり。 行ひなどしてい聞くに、あやしう尊き法師のこゑにて読経し陀羅尼よむ。 この小野の小町あやしがりて、つれなき様にて人を遣りて見せければ、「蓑ひとつ着たる法師の、腰に火打笥など結ひつけたるなむ、隅にゐたる」と言ひけり。 かくてなお聞くに声いと尊くめでたうきこゆればただなる人にはよにあらじ、もし少将大徳にやあらむとおもひにけり。 「いががいふ」とて、「この御寺になむ侍る。 いと寒きに御衣一つ貸しす給へ」とて、 いはの上に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ といひやりたりるかへりごとに、 世をそむく苔の衣はただ一重かさねばつらしいざ二人寝む といひたりるに、さらに少将なりけりと思ひて、語らひとげんとなれば、あひて物も言はんと思ひていきけれどかい消つやうに失せにけり。 遍昭は、俗名を良岑宗貞と言い桓武天皇の孫に当たる。 仁明天皇の崩御後出家する。 なお、『古今集』の序文では「歌のさまは得たれどもるまこと少なし」と、評言されている。 また、同じ六歌仙の文屋康秀との逸話が『古今著集』にある。 小町は両親をはじめ兄にも死別して「単孤無頼」の身となり、容色衰退し、家は破れ、庭は荒れ、蓬の繁茂するところとなっている。 時に旧知の康秀から誘いうがある。 文屋康秀が、参河掾になりて、「県見にはえ出で立たじや」と言ひやりける返事によめる わびぬれば身を浮き草の根をたへて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ なお、この歌は『古今集』(巻十八にも載っている。 「はては野山にぞさそらひける」と『著聞集』は結んでいる。 小町の零落説話は諸書に散見される。 小町の歌はその大部分が恋についてのものである。 恋に酔い痴れているというよりも、むしろ、成就せずに忍んだり、悲しんだり、嘆いたりしているものが多い。 意のままにならない現実から夢の中での通いを期待したり望んだりする。 心変わりしていく人の不実をを嘆くのも常であった。 「色見えでうつらふものは世の中に人の心の花にぞありける」。 が、その果てには、 山里はものの寂しき事こそあれ世の憂きよりは住みよかりけり『小町集』 寂しい山里の住まいも世の中の辛さに比べれば、住みよいものである。 と心境を吐露している。 この心境は恋の遍歴の後に到達した諦めの姿であろう。 その先には仏の世界のあることを示す歌はない。

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