ランボー シリーズ。 『ランボー5:ラスト・ブラッド』米国版予告編 ─ シルベスター・スタローン、「過去に向き合う」11年ぶりの最新作

全部知ってた?映画「ランボー」シリーズにまつわる10のトリビア(MOVIE WALKER PRESS)

ランボー シリーズ

〜アクションヒーローの代名詞 男ランボー〜 一作目の『ランボー』が公開されて以来、早いもので40年弱が経過した。 不死身のベトナム帰還兵ジョン・ランボーは、今やアクションヒーローの代名詞。 パロディにされたり、オマージュを捧げられたり。 シリーズを一本も見たことがない人でもランボーというと、銃や弓を構え、タンクトップ姿で肉体美を誇示するシルヴェスター・スタローンの姿が思い浮かぶほどだから、その影響力は計り知れない。 超人的な体力とタフネスを武器にして敵を次々と始末していく劇画チックな無敵の殺人マシン……一般的には、そんなイメージだろうか。 しかし、シリーズをしっかり追っていくと、ランボーのキャラクターの魅力も見えてくる。 すなわち、寡黙なアウトロー。 これはスタローンのもうひとつの代表作『ロッキー』シリーズの主人公ロッキー・バルボアとは対照的だ。 ロッキーは口下手ではあったが、ジョークのセンスを持っていたし、人生訓ともとれる名セリフを何度となく発してきた。 愛する者と結ばれ、家庭を築いた。 対して、ランボーは冗舌になる場面は怒ったときくらいで、セリフは少ない。 愛する者と結ばれることもなく、ベトナムで負った心の傷を癒せず、つねに孤独だ。 俺たちのヒーロー、ランボーの本質は、そんな痛みと哀愁にある!そう言い切って、ランボーの歴史を振り返ってみよう。 「タクシー・ドライバー」「ディア・ハンター」的な社会派作品のテーストがあった1作目 1982年の1作目『ランボー』は、アクション映画に分類されるものの、つくりは硬派だった。 アメリカの田舎町に流れ着いた帰還兵ランボーは保安官の嫌がらせに対して、文句を発することなくひたすら耐える。 耐えて、耐えて、耐え抜き、留置所で拷問のような扱いをされたとき、ベトナムで受けた悪夢が甦り、反射的に防衛本能が働き、反撃に転じることになる。 我慢を重ねた主人公が、そのあげく戦闘能力を全開にするという展開は、高倉健の『昭和残侠伝』シリーズに代表される任侠映画の王道パターンにも似ている。 面白いのは、愛用のサバイバルナイフを持ってはいるものの、健さんのように斬って斬って斬りまくる…わけではない点。 今でこそ殺人マシンの印象が強いランボーだが、本作では敵である保安官や州兵たちを、誰ひとり故意に殺してはいないのだ。 これは原作小説と異なる点であると同時に、映画におけるランボーの人間性を際立たせることになった。 ラストでは国のために戦ったにも関わらず、帰国したら危険人物として扱われる帰還兵のいらだちが、寡黙なランボーの口から怒りとともに語られる。 その強いメッセージ性を踏まえると、本作はアクションヒーロー映画というより、『タクシー・ドライバー』『帰郷』『ディア・ハンター』などの帰還兵の狂気や苦悩を描いた社会派ドラマに近い。 国に見捨てられた米兵の救出に向かうことでヒーローの道を歩み始める第2作 ランボーが本格的にアクションヒーローの道を歩むのは、1985年の2作目『ランボー/怒りの脱出』からだ。 ベトナムで捕虜になったまま国に見捨てられた米兵の存在という社会派の要素こそあるが、その救出に向かったランボーもまた国に見捨てられるという逆境設定は、グリーンベレー最強の戦士という彼の凄みを見せつけるために機能する。 取り残された米兵を救うミッションで再びベトナムに戻ったランボーは無残な拷問を受ける羽目に 敵に捕らえられ、拷問されても口を開かない。 泥にまみれ、ヒルに吸い付かれても弱音を吐かず、森の中でゲリラ戦を繰り広げ、正確に敵を倒していく。 まさに不言実行。 一方で本作では、現地案内人の女性バオとの間に芽生えた、シリーズ唯一のロマンスの逸話が描かれる。 しかし、彼女が敵に殺されたことにより、その怒りを戦闘のエネルギーに変換。 誰かと幸せになれないランボーは、やはりアウトローだった。 ちなみに、ここでランボーはバオに〝俺は「使い捨て」(=エクスペンダブル)だ〞と語るが、このワードが21世紀のスタローンの代表作『エクスペンダブルズ』とリンクしているのは注目しておきたい。 第3作ではアフガニスタンの砂漠で体制崩壊期のソ連軍と戦う姿に〝タカ派〞との揶揄も 元上官トラウトマンを救うためにアフガンに向ったランボーに新たな戦いが 続く3作目1988年の『ランボー/怒りのアフガン』では、よりヒロイックな活躍が強調される。 舞台はベトナムではなく、タイトルどおりアフガニスタンで、ランボーにとっては他人の戦争に首をつっこんだかたちだが、目的が恩人のトラウトマン大佐の救出なのだから、戦う動機に筋は通っている。 前2作が山岳地帯の森林がバトルフィールドになっていたのに対して、ここでは砂漠。 陽光の下での戦いが多いせいもあるが、得意の弓矢や射撃などのアクションがビシッと決まった。 対ソ連という冷戦に目配せした作風ゆえタカ派と揶揄されたり、アフガンから撤退したソ連の社会主義体制崩壊期の公開だったためのピントのズレが批判されたりしたが、娯楽アクションと割り切れば申し分なく面白い。 弾圧を受ける少数民族のために20年ぶりにランボーを復活させた第4作 この3部作で、『ランボー』は終了するはずだった。 しかし、2008年、前作から20年を経て、62歳のスタローンは第4作『ランボー/最後の戦場』を送り出す。 スタローンが長いブランクを経て本作を撮ろうとしたのは、ひとえにミャンマーで起きていた少数民族への非人道的な弾圧を告発するという確固たる意志があったから。 引退していたランボーは捕らわれた若者たちを助けることになりミャンマーへ向かう そういう意味では、一作目の社会的目線が先に立った、ともいえる。 ランボーのジャングルでの鮮やかな戦いぶりはそのままに、全3作では見られなかったハードコアな殺戮シーンのオンパレード。 人間の命が驚くほど軽い国が、この地上にはある……そう伝えているかのようなバイオレンス。 一方、ランボーのキャラクターを注視すると、全3作の逆三角形の均整のとれた肉体が変化し、やや寸胴気味に見えるのは年齢的に仕方がない。 しかし、ランボーは歳をとってもランボーであり、口数の少ない世捨て人的な性格は変わらない。 しかし、本作には大きな変化がある。 それはPTSDに苛まれたあげく、戦い続けなければならない運命を受け入れること。 もう祖国アメリカのためには戦わない。 〝自分のために(敵を)殺す〞という独白のとおり、自身の大義で戦うのが21世紀のランボーであり、前3作とはガラッと異なる点だ。 すでに70歳を越えたランボーは幸福な生活を掴んでいたのだが…… 平穏な生活を得てもなおランボーの心を蝕む戦争の傷跡は癒えることがなかった 注目の最新作『ランボーラスト・ブラッド』でも、その流儀は貫かれている。 題材はメキシコで行なわれている人身売買。 本作のランボーは故郷アリゾナで、旧知の女性やその孫娘と家族のような関係を育んでおり、もはやアウトローではない。 絆がある以上、そこに会話があるのは当たり前で、前4作に比べるとセリフは多めだ。 しかし、幸福そうに見えるのは最初だけ。 後半に進むほど怒りとともに、ランボーの戦士の血がたぎりだし、殺気は前作以上に高まる。 〝俺は復讐したい〞という驚くべき発言も、前作で戦士としての宿命を受け入れたことを踏まえれば納得がいく。 ランボーはすでに70歳を過ぎている設定だが、歳をとって丸くなるどころか、どんどん孤高の道を突き進んでいる。 老兵は消え去るのみなのか、それともこの先があるのか?美しく老いることを拒絶し、アウトサイダーとして生きる男の今後が気になるところだ。 Photos by Getty Images.

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午後のロードショーで「ランボー」&スタローン特集、シリーズ最新作の公開記念

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〜アクションヒーローの代名詞 男ランボー〜 一作目の『ランボー』が公開されて以来、早いもので40年弱が経過した。 不死身のベトナム帰還兵ジョン・ランボーは、今やアクションヒーローの代名詞。 パロディにされたり、オマージュを捧げられたり。 シリーズを一本も見たことがない人でもランボーというと、銃や弓を構え、タンクトップ姿で肉体美を誇示するシルヴェスター・スタローンの姿が思い浮かぶほどだから、その影響力は計り知れない。 超人的な体力とタフネスを武器にして敵を次々と始末していく劇画チックな無敵の殺人マシン……一般的には、そんなイメージだろうか。 しかし、シリーズをしっかり追っていくと、ランボーのキャラクターの魅力も見えてくる。 すなわち、寡黙なアウトロー。 これはスタローンのもうひとつの代表作『ロッキー』シリーズの主人公ロッキー・バルボアとは対照的だ。 ロッキーは口下手ではあったが、ジョークのセンスを持っていたし、人生訓ともとれる名セリフを何度となく発してきた。 愛する者と結ばれ、家庭を築いた。 対して、ランボーは冗舌になる場面は怒ったときくらいで、セリフは少ない。 愛する者と結ばれることもなく、ベトナムで負った心の傷を癒せず、つねに孤独だ。 俺たちのヒーロー、ランボーの本質は、そんな痛みと哀愁にある!そう言い切って、ランボーの歴史を振り返ってみよう。 「タクシー・ドライバー」「ディア・ハンター」的な社会派作品のテーストがあった1作目 1982年の1作目『ランボー』は、アクション映画に分類されるものの、つくりは硬派だった。 アメリカの田舎町に流れ着いた帰還兵ランボーは保安官の嫌がらせに対して、文句を発することなくひたすら耐える。 耐えて、耐えて、耐え抜き、留置所で拷問のような扱いをされたとき、ベトナムで受けた悪夢が甦り、反射的に防衛本能が働き、反撃に転じることになる。 我慢を重ねた主人公が、そのあげく戦闘能力を全開にするという展開は、高倉健の『昭和残侠伝』シリーズに代表される任侠映画の王道パターンにも似ている。 面白いのは、愛用のサバイバルナイフを持ってはいるものの、健さんのように斬って斬って斬りまくる…わけではない点。 今でこそ殺人マシンの印象が強いランボーだが、本作では敵である保安官や州兵たちを、誰ひとり故意に殺してはいないのだ。 これは原作小説と異なる点であると同時に、映画におけるランボーの人間性を際立たせることになった。 ラストでは国のために戦ったにも関わらず、帰国したら危険人物として扱われる帰還兵のいらだちが、寡黙なランボーの口から怒りとともに語られる。 その強いメッセージ性を踏まえると、本作はアクションヒーロー映画というより、『タクシー・ドライバー』『帰郷』『ディア・ハンター』などの帰還兵の狂気や苦悩を描いた社会派ドラマに近い。 国に見捨てられた米兵の救出に向かうことでヒーローの道を歩み始める第2作 ランボーが本格的にアクションヒーローの道を歩むのは、1985年の2作目『ランボー/怒りの脱出』からだ。 ベトナムで捕虜になったまま国に見捨てられた米兵の存在という社会派の要素こそあるが、その救出に向かったランボーもまた国に見捨てられるという逆境設定は、グリーンベレー最強の戦士という彼の凄みを見せつけるために機能する。 取り残された米兵を救うミッションで再びベトナムに戻ったランボーは無残な拷問を受ける羽目に 敵に捕らえられ、拷問されても口を開かない。 泥にまみれ、ヒルに吸い付かれても弱音を吐かず、森の中でゲリラ戦を繰り広げ、正確に敵を倒していく。 まさに不言実行。 一方で本作では、現地案内人の女性バオとの間に芽生えた、シリーズ唯一のロマンスの逸話が描かれる。 しかし、彼女が敵に殺されたことにより、その怒りを戦闘のエネルギーに変換。 誰かと幸せになれないランボーは、やはりアウトローだった。 ちなみに、ここでランボーはバオに〝俺は「使い捨て」(=エクスペンダブル)だ〞と語るが、このワードが21世紀のスタローンの代表作『エクスペンダブルズ』とリンクしているのは注目しておきたい。 第3作ではアフガニスタンの砂漠で体制崩壊期のソ連軍と戦う姿に〝タカ派〞との揶揄も 元上官トラウトマンを救うためにアフガンに向ったランボーに新たな戦いが 続く3作目1988年の『ランボー/怒りのアフガン』では、よりヒロイックな活躍が強調される。 舞台はベトナムではなく、タイトルどおりアフガニスタンで、ランボーにとっては他人の戦争に首をつっこんだかたちだが、目的が恩人のトラウトマン大佐の救出なのだから、戦う動機に筋は通っている。 前2作が山岳地帯の森林がバトルフィールドになっていたのに対して、ここでは砂漠。 陽光の下での戦いが多いせいもあるが、得意の弓矢や射撃などのアクションがビシッと決まった。 対ソ連という冷戦に目配せした作風ゆえタカ派と揶揄されたり、アフガンから撤退したソ連の社会主義体制崩壊期の公開だったためのピントのズレが批判されたりしたが、娯楽アクションと割り切れば申し分なく面白い。 弾圧を受ける少数民族のために20年ぶりにランボーを復活させた第4作 この3部作で、『ランボー』は終了するはずだった。 しかし、2008年、前作から20年を経て、62歳のスタローンは第4作『ランボー/最後の戦場』を送り出す。 スタローンが長いブランクを経て本作を撮ろうとしたのは、ひとえにミャンマーで起きていた少数民族への非人道的な弾圧を告発するという確固たる意志があったから。 引退していたランボーは捕らわれた若者たちを助けることになりミャンマーへ向かう そういう意味では、一作目の社会的目線が先に立った、ともいえる。 ランボーのジャングルでの鮮やかな戦いぶりはそのままに、全3作では見られなかったハードコアな殺戮シーンのオンパレード。 人間の命が驚くほど軽い国が、この地上にはある……そう伝えているかのようなバイオレンス。 一方、ランボーのキャラクターを注視すると、全3作の逆三角形の均整のとれた肉体が変化し、やや寸胴気味に見えるのは年齢的に仕方がない。 しかし、ランボーは歳をとってもランボーであり、口数の少ない世捨て人的な性格は変わらない。 しかし、本作には大きな変化がある。 それはPTSDに苛まれたあげく、戦い続けなければならない運命を受け入れること。 もう祖国アメリカのためには戦わない。 〝自分のために(敵を)殺す〞という独白のとおり、自身の大義で戦うのが21世紀のランボーであり、前3作とはガラッと異なる点だ。 すでに70歳を越えたランボーは幸福な生活を掴んでいたのだが…… 平穏な生活を得てもなおランボーの心を蝕む戦争の傷跡は癒えることがなかった 注目の最新作『ランボーラスト・ブラッド』でも、その流儀は貫かれている。 題材はメキシコで行なわれている人身売買。 本作のランボーは故郷アリゾナで、旧知の女性やその孫娘と家族のような関係を育んでおり、もはやアウトローではない。 絆がある以上、そこに会話があるのは当たり前で、前4作に比べるとセリフは多めだ。 しかし、幸福そうに見えるのは最初だけ。 後半に進むほど怒りとともに、ランボーの戦士の血がたぎりだし、殺気は前作以上に高まる。 〝俺は復讐したい〞という驚くべき発言も、前作で戦士としての宿命を受け入れたことを踏まえれば納得がいく。 ランボーはすでに70歳を過ぎている設定だが、歳をとって丸くなるどころか、どんどん孤高の道を突き進んでいる。 老兵は消え去るのみなのか、それともこの先があるのか?美しく老いることを拒絶し、アウトサイダーとして生きる男の今後が気になるところだ。 Photos by Getty Images.

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『ランボー』最終章 スタローン「必ずや観客にシリーズ初の驚きを与える」場面写真9点解禁 /2020年3月27日 1ページ目

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どういう意味かと調べてみれば、「敵地にたったひとりで殴り込み、滅多矢鱈に撃ちまくり、動くものを片っ端から皆殺しにすること」とある。 言うまでもなく、1982年に第1作が公開された『ランボー』シリーズから生まれた言葉だ。 確かに、これがシルヴェスター・スタローン演じるアクション・ヒーロー、ジョン・ランボーの一般的なイメージなのだろうとは思う。 とは言いつつ、何かが決定的に見落とされているという気もしてならない。 ランボーは決して好戦的なキャラクターではない。 それどころか戦いはしたくないし、何なら戦うことも含めた世のなかのあれやこれやから距離を置きたい、というかとにかく放っておいてほしいと常に願っている。 西に紛争があれば行って銃をぶっ放し、東に敵がいればやはり行って銃をぶっ放すような、そんな男ではないのである。 最新作を目前に控えて『ランボー』シリーズを振り返るにあたり、そのことはまず押さえておきたい。 A post shared by officialslystallone on May 22, 2020 at 11:49am PDT ニューシネマの残滓という味わい。 『ランボー』(1982年) デヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」が原作の『ランボー』第1部をいま観てみると、これがいかにも80年代的なアクション巨篇ではないことに、あらためて気づかされる。 戦地での苛烈な経験で精神を病んだベトナム帰還兵、ジョン・ランボーが米国ワシントン州の田舎町で迫害を受け、自らの身を守るために暴走する。 映画のトーンは寒々しく沈鬱で、これが『ソルジャー・ボーイ』(1972年)や『ローリング・サンダー』(1977年)といった70年代帰還兵ものの流れを汲む作品であることを実感する。 A post shared by officialslystallone on Apr 16, 2020 at 12:59pm PDT 自ら脚本を書いた『ロッキー』(1976年)で、何者でもない人間でも、努力すれば大きな成功を手にすることができる……というアメリカの理想を描いたシルヴェスター・スタローン。 その本人がやはり脚本に参画した『ランボー』が伝えているのは、しかしどう頑張っても世間から受け入れられることはなく、いっそ疎んじられるばかりという悲劇だ。 『ロッキー』の希望に対して、『ランボー』は挫折を描いている。 仮にシリーズが第1作で終わっていたら、『ランボー』はアメリカン・ニューシネマの系譜に連なる渋い映画として、いまも語られ続けていたかもしれない。 体制との戦いは続く。 『ランボー/怒りの脱出』(1985年) 実は大規模な銃撃戦もなく、また無闇に人が死ぬわけでもなかった『ランボー』。 そこから発展して、アクション・アイコンとしての主人公を世間一般に決定づけたのは、1984年の第2部『ランボー/怒りの脱出』だろう。 若き日のジェームズ・キャメロンが脚本を書いた(さらにそれをスタローン本人が徹底的に修正した)物語は、かつてランボー自身が戦い、そして捕虜となって地獄を見たベトナムを舞台に展開する。 ゲリラ戦のエキスパートの本領をいよいよ発揮、前作を大きく超えるアクションが展開する。 しかしユニークなのは、主人公がベトナム駐留のソ連軍(当時)兵士と交戦はするけれども、彼らがあくまで捕虜救出というミッションの障害物として描かれているのみ、ということだ。 実際のところ、ランボーに無茶な任務を押しつけて自分はふんぞり返るCIAの役人(チャールズ・ネイピア)こそが第2部における最大の敵役だといえる。 兵士を消耗品として使い捨てる体制にランボーが牙を剥く、ということにおいて『怒りの脱出』は第1部と同じ物語で、実はそこまで大きな路線変更があったわけではない。 A post shared by officialslystallone on Mar 16, 2019 at 2:19pm PDT 当時のレーガン大統領はアメリカの軍事戦略について、しばしばランボー的な価値観を披瀝している。 しかし、反体制ヒーローとしてのジョン・ランボーがずいぶん都合よく利用されたものだ、といまでは思わずにいられない。 ランボー・バブル最高潮。 『ランボー3/怒りのアフガン』(1988年) だがそういう、どこか間違ったパブリック・イメージに、ジョン・ランボー自身が近づいていったのが『ランボー3/怒りのアフガン』だ。 ここに至って、我らが主人公はいよいよ旧ソ連との正面対決に臨むこととなる(当時の日本版ポスターには「15万のソ連軍最強師団の中へ!」とのコピーが躍る。 これは大変なことになった)。 もちろんアフガンで捕まった恩人トラウトマン大佐を救うためという目的があるにはあるし、また映画の冒頭でランボーは兵士としての人生に背を向け、ひとりタイで暮らしてもいる。 だがここに至って、誰からも感謝されない消耗品としてのランボーというキャラクターは相当薄まってしまった。 A post shared by officialslystallone on Jul 1, 2019 at 4:56pm PDT またトラウトマン大佐(リチャード・クレンナ)がどれだけ立派な人物だと言われても、この人が人間を超えた戦闘マシーン・ランボーを作り上げた張本人であることは疑いようがなかったり、さまざまにモヤモヤさせられる要素にも事欠かない。 物量的には大したものだがなかなか大味なアクション演出も相まって、これでいいのだろうか……ランボー……と公開当時に思ったことをいまでも憶えている(しかし『怒りのアフガン』も完全に箸にも棒にもかからない作品かといえばそうではなく、現在になって観直してみるとランボーがアフガン・ゲリラのムジャーヒディーンと共闘していたりして、これはこれで非常に味わい深い。 冷戦時代、ソ連への対抗措置として米CIAはムジャーヒディーンに資金供与を行っていた。 だがそのムジャーヒディーンが後にアル=カーイダへと形を変え、2001年に米国同時多発テロを実行することになるとは、『怒りのアフガン』の時点では誰も予想していなかったのである)。 無駄に生きるか、何かのために死ぬか。 狂気の傑作『ランボー 最後の戦場』(2008年) 第3部をもって完結したとばかり思っていた『ランボー』シリーズ。 ところが20年の時を経て、まさかの新作にして最高傑作が生まれてしまった。 『ランボー/最後の戦場』。 これは2006年の『ロッキー・ザ・ファイナル』に続いて、スタローンが自らのキャリアを総括した映画のひとつだ。 A post shared by rambomovie on Aug 27, 2018 at 10:06am PDT できればそっとしておいてほしい気持ちはあるが、人よりうまくできることといえば殺しぐらいのものだということをはっきりと自覚し、シリーズ最大級の超・暴力を炸裂させる。 ミャンマー軍との戦闘に送り込まれたものの、思わぬ劣勢につい腰砕けになってしまった傭兵たちにかますランボーの説教。 「俺たちの誰ひとり、望んでここにいるわけじゃない。 だがこれが(註:人殺しが)俺たちの仕事だ……無駄に生きるか、何かのために死ぬか。 自分で決めろ」 腹の底から絞り出される言葉には異常な説得力がある。 ベトナムから遠く離れて、いよいよ殺人マシーンとしての生き方を完全に受け入れたジョン・ランボーの鬼気迫る覚悟。 思わず戦慄させられるのは、この映画のなかでランボーが危機らしい危機を迎えないことだ(いちいちピンチに追い込まれるのは新登場の傭兵部隊の役目)。 初登場から実に26年、いよいよ人間を超えて、暴力の神にも等しい存在となったジョン・ランボー。 スタローン自身が監督、表現の限界を突破する大殺戮を見せつけるクライマックスは圧巻のひとことに尽きる。 『最後の戦場』との邦題どおり、これでシリーズが終わるのならまったく文句はない。 と思ったら、ランボーのさらにその後を描く最新作『ラスト・ブラッド』が大公開されるというではないか。 当年とって72歳、『最後の戦場』を経て、もはや神にも等しい存在となったランボーに戦いを挑むバカがいるのだろうか……と思ったら、これがいるのである。 ようやく帰還した祖国アメリカに、もう一度地獄を蘇らせるランボー。 その地獄がどんなものか震えて待ちつつ、いまのうちにシリーズ前4作を復習しておいていただきたい。

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